三十六人を数えたが、その年の暮れには一息に二十三人の入門候補者を得たほど、この地方の信用と同情とを増した。
その時になって見ると、片桐春一《かたぎりしゅんいち》らの山吹《やまぶき》社中を中心にする篤胤研究はにわかに活気を帯びて来る。従来国恩の万分の一にも報いようとの意気込みで北原稲雄らによって計画された先師遺著『古史伝』三十一巻の上木頒布《じょうぼくはんぷ》は一層順調に諸門人が合同協力の実をあげる。小野の倉沢義髄《くらさわよしゆき》、清内路の原|信好《のぶよし》のように、中世否定の第一歩を宗教改革に置く意味で、神仏|混淆《こんこう》の排斥と古神道の復活とを唱えるために、相携えて京都へ向かおうとしているものもある。
この機運を迎えた、伊那地方にある同門の人たちは、日ごろ彼らが抱《いだ》いている夢をなんらかの形に実現しようとして、国学者として大きな諸先達のためにある記念事業を計画していた。半蔵らが飯田にはいった翌々日には、三人ともその下相談にあずかるために、町にある同門の有志の家に集まることになった。
ここですこしく平田門人の位置を知る必要がある。篤胤の学説に心を傾けたものは武士階級に少なく、その多くは庄屋《しょうや》、本陣、問屋《といや》、医者、もしくは百姓、町人であった。先師篤胤その人がすでに医者の出であり、師の師なる本居宣長《もとおりのりなが》もまた医者であった。半蔵らの旧師宮川寛斎が中津川の医者であったことも偶然ではない。
その中にも、庄屋と本陣問屋とが、東美濃から伊那へかけての平田門人を代表すると見ていい。しかし、当時の庄屋問屋本陣なるものの位置がその籍を置く公私の領地に深き地方的な関係のあったことを忘れてはならない。たとえば、景蔵、香蔵の生まれた地方は尾州領である。その地方は一方は木曾川を隔てて苗木《なえぎ》領に続き、一方は丘陵の起伏する地勢を隔てて岩村領に続いている。尾州の家老|成瀬《なるせ》氏は犬山に、竹腰《たけごし》氏は今尾《いまお》に、石河《いしかわ》氏は駒塚《こまづか》に、その他|八神《やがみ》の毛利《もうり》氏、久々里《くくり》九人衆など、いずれも同じ美濃の国内に居所を置き、食邑《しょくゆう》をわかち与えられている。言って見れば、中津川の庄屋は村方の年貢米だけを木曾福島の山村氏(尾州代官)に納める義務はあるが、その他の関係においては御三家の随一なる尾州の縄張《なわば》りの内にある。江戸幕府の権力も直接にはその地方に及ばない。東美濃と南信濃とでは、領地関係もおのずから異なっているが、そこに籍を置く本陣問屋庄屋なぞの位置はやや似ている。あるところは尾州旗本領、あるところはいわゆる交代寄り合いの小藩なる山吹領というふうに、公領私領のいくつにも分かれた伊那地方が篤胤研究者の苗床《なえどこ》であったのも、決して偶然ではない。たとえば暮田正香《くれたまさか》のような幕府の注意人物が小野の倉沢家にも、田島の前沢家にも、伴野《ともの》の松尾家にも、座光寺の北原家にも、飯田の桜井家にも、あるいは山吹の片桐家にもというふうに、巡行寄食して隠れていられるのも、伊那の谷なればこそだ。また、たとえば長谷川《はせがわ》鉄之進、権田直助《ごんだなおすけ》、落合|直亮《なおあき》らの志士たちが小野の倉沢家に来たり投じて潜伏していられるということも、この谷なればこそそれができたのである。
町の有志の家に集まる約束の時が来た。半蔵は二人の友だちと同じように飯田の髪結いに髪を結わせ、純白で新しい元結《もとゆい》の引き締まったここちよさを味わいながら一緒に旅籠屋《はたごや》を出た。時こそ元治《げんじ》元年の多事な年の暮れであったが、こんなに友だちと歩調を合わせて、日ごろ尊敬する諸大人のために何かの役に立ちに行くということは、そうたんと来そうな機会とも思われなかったからで。三人連れだって歩いて行く中にも、一番年上で、一番左右の肩の釣合《つりあ》いの取れているのは景蔵だ。香蔵と来たら、隆《たか》く持ち上げた左の肩に物を言わせ、歩きながらでもそれをすぼめたり、揺《ゆす》ったりする。この二人に比べると、息づかいも若く、骨太《ほねぶと》で、しかも幅の広い肩こそは半蔵のものだ。行き過ぎる町中には、男のさかりも好ましいものだと言いたげに、深い表格子の内からこちらをのぞいているような女の眸《ひとみ》に出あわないではなかったが、三人はそんなことを気にも留めなかった。その日の集まりが集まりだけに、半蔵らはめったに踏まないような厳粛な道を踏んだ。
新しい社《やしろ》を建てる。荷田春満《かだのあずままろ》、賀茂真淵《かものまぶち》、本居宣長、平田篤胤、この国学四大人の御霊代《みたましろ》を置く。伊那の谷を一望の中にあつめることのできる山吹村の条山《じょうざん》(俗に小枝山《こえだやま》とも)の位置をえらび、九|畝歩《せぶ》ばかりの土地を山の持ち主から譲り受け、枝ぶりのおもしろい松の林の中にその新しい神社を創立する。
この楽しい考えが、平田門人片桐春一を中心にする山吹社中に起こったことは、何よりもまず半蔵らをよろこばせた。独立した山の上に建てらるべき木造の建築。四人の翁を祭るための新しい社殿。それは平田の諸門人にとって郷土後進にも伝うべきよき記念事業であり、彼らが心から要求する復古と再生との夢の象徴である。なぜかなら、より明るい世界への啓示を彼らに与え、健全な国民性の古代に発見せらるることを彼らに教えたのも、そういう四人の翁の大きな功績であるからで。
その日、山吹社中の重立ったものが飯田にある有志の家に来て、そこに集まった同門の人たちに賛助を求めた。景蔵はじめ、香蔵、半蔵のように半ば客分のかたちでそこに出席したものまで、この記念の創立事業に異議のあろうはずもない。山吹から来た門人らの説明によると、これは片桐春一が畢生《ひっせい》の事業の一つとしたい考えで、社地の選定、松林の譲り受け、社殿の造営工事の監督等は一切山吹社中で引き受ける。これを条山神社とすべきか、条山霊社とすべきか、あるいは国学霊社とすべきかはまだ決定しない。その社号は師平田|鉄胤《かねたね》の意見によって決定することにしたい。なお、四大人の御霊代《みたましろ》としては、先人の遺物を全部平田家から仰ぐつもりであるとの話で、片桐春一ははたから見ても涙ぐましいほどの熱心さでこの創立事業に着手しているとのことであった。
その日の顔ぶれも半蔵らにはめずらしい。平素から名前はよく聞いていても、互いに見る機会のない飯田居住の同門の人たちがそこに集まっていた。駒場《こまば》の医者山田|文郁《ぶんいく》、浪合《なみあい》の増田《ますだ》平八郎に浪合|佐源太《さげんた》なぞの顔も見える。景蔵には親戚《しんせき》にあたる松尾誠(多勢子《たせこ》の長男)もわざわざ伴野《ともの》からやって来た。先師没後の同じ流れをくむとは言え、国学四大人の過去にのこした仕事はこんなにいろいろな弟子《でし》たちを結びつけた。
その時、一室から皆の集まっている方へ来て、半蔵の肩をたたいた人があった。
「青山君。」
声をかけたは暮田正香だ。半蔵はめずらしいところでこの人の無事な顔を見ることもできた。伊那の谷に来て隠れてからこのかた、あちこちと身を寄せて世を忍んでいるような正香も、こうして一同が集まったところで見ると、さすがに先輩だ。小野村の倉沢|義髄《よしゆき》を初めて平田鉄胤の講筵《こうえん》に導いて、北伊那に国学の種をまく機縁をつくったほどの古株だ。
「世の中はおもしろくなって来ましたね。」
だれが言い出すともないその声、だれが言いあらわして見せるともないその新しいよろこびは、一座のものの顔に読まれた。山吹社中のものが持って来た下相談は、言わば内輪《うちわ》の披露《ひろう》で、大体の輪郭に過ぎなかったが、もしこの条山神社創立の企てが諸国同門の人たちの間に知れ渡ったらどんな驚きと同情とをもって迎えられるだろう、第一京都の方にある師鉄胤はどんなに喜ばれるだろう、そんな話でその日の集まりは持ち切った。
「暮田さん、わたしたちの宿屋まで御一緒にいかがですか。」
半蔵は二人の友だちと共に正香を誘った。その晩は飯田の親戚の家に泊まるという松尾誠と別れて、四人一緒に旅籠屋《はたごや》をさして歩いた。
正香は思い出したように、
「青山君、わたしも今じゃあの松尾家に居候《いそうろう》でさ。京都からやって来た時はいろいろお世話さまでした。あの時は二日二晩も歩き通しに歩いて、中津川へたどり着くまでは全く生きた心地《ここち》もありませんでした。浅見君のお留守宅や青山君のところで御厄介《ごやっかい》になったことは忘れませんよ。」
半蔵らの旧師宮川寛斎が横浜引き揚げ後にその老後の「隠れ家《が》」を求めた場所も伴野であり、今またこの先輩が同じ村の松尾家に居候だと聞くことも、半蔵らの耳には奇遇と言えば奇遇であった。伊那の方へ来て聞くと、あの寛斎老人が伴野での二、三年はかなり不遇な月日を送ったらしい。率先した横浜貿易があの旧師に祟《たた》った上に、磊落《らいらく》な酒癖から、松尾の子息《むすこ》ともよくけんかしたなぞという旧《ふる》い話も残っていた。
「伊勢《いせ》の方へ行った宮川先生にも、今度の話を聞かせたいね。」
「あの老人のことですから、山吹に神社ができて平田先生なぞを祭ると知ったら、きっと落涙するでしょう。」
「喜びのあまりにですか。そりゃ、人はいろいろなことを言いますがね、あの宮川先生ぐらい涙の多い人を見たことはありません。」
三人の友だちの間には、何かにつけて旧師のうわさが出た。
旅籠屋に帰ってから、半蔵らは珍客を取り囲《ま》いて一緒にその日の夕方を送った。正香というものが一枚加わると、三人は膝《ひざ》を乗り出して、あとからあとからといろいろな話を引き出される。あつらえたちょうしが来て、盃《さかずき》のやり取りが始まるころになると、正香がまずあぐらにやった。
「どれ、無礼講とやりますか。そう、そう、あの馬籠の本陣の方で、わたしは一晩土蔵の中に御厄介になった。あの時、青山君が瓢箪《ふくべ》に酒を入れて持って来てくだすった。あんなうまい酒は、あとにも先にもわたしは飲んだことがありませんよ。」
「まあ、そう言わずに、飯田の酒も味わって見てください。」と半蔵が言う。
「暮田さんの前ですが、いったい、今の洋学者は何をしているんでしょう。」と言い出したのは香蔵だ。
「また香蔵さんがきまりを始めた。」と景蔵は笑いながら、「君は出し抜けに何か言い出して、ときどきびっくりさせる人だ。しょッちゅう一つ事を考えてるせいじゃありませんかね。」
「でも、わたしは黒船というものを考えないわけにいきません。」とまた香蔵が言った。
なんの事はない。この二人《ふたり》の年上の友だちがそこへ言い出したことは、やがて半蔵自身の内部の光景でもある。彼としても「一つ事を考えている」と言わるる香蔵を笑えなかった。
「そりゃ、君、ことしの夏京都へ行って斬《き》られた佐久間象山だって、一面は洋学者さ。」と正香は言った。「あの人は木曾路を通って京都の方へ行ったんでしょう。青山君の家へも休むか泊まるかして行ったんじゃありませんか。」
「いえ、ちょうどわたしは留守の時でした。」と半蔵は答える。「あれは三月の山桜がようやくほころびる時分でした。わたしは福島の出張先から帰って、そのことを知りました。」
「蜂谷《はちや》君は。」
「わたしは景蔵さんと一緒に京都の方にいた時です。象山も陪臣ではあるが、それが幕府に召されたという評判で、十五、六人の従者をつれて、秘蔵の愛馬に西洋|鞍《ぐら》か何かで松代《まつしろ》から乗り込んで来た時は、京都人は目をそばだてたものでした。」
「でしょう。象山のことですから、おれが出たらと思って、意気込んで行ったものでしょうかね。でも、あの人は吉田松陰《よしだしょういん》の事件で、九年も禁錮《きんこ》の身だったというじゃありませんか。戸を出《い》
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