らく沈黙が続いた。
「半蔵さん。攘夷論がやかましくなって来たそもそもは、あれはいつごろだったでしょう。ほら、幕府の大官が外国商人と結託してるの、英国公使に愛妾《あいしょう》をくれたのッて、やかましく言われた時がありましたっけね。」
「そりゃ、尊王攘夷の大争いにだって、利害関係はついて回る。横浜開港以来の影響はだれだって考えて来たことですからね。でも、尊攘と言えば、一種の宗教運動に似たもので、成敗利害の外にある心持ちから動いて来たものじゃありますまいか。」
「今日《こんにち》まではそうでしょうがね。しかし、これから先はどうありましょうかサ。」
「まあ、西の方へ行って見たまえ。公卿でも、武士でも、驚くほど実際的ですよ。水戸の人たちのように、ああ物事にこだわっていませんよ。」
「いや、京都へ行って帰って来てから、君らの話まで違って来た。」
 こんな話も出た。
 その夜、半蔵は家のものに言い付けて二人の友だちの寝床を店座敷に敷かせ、自分も同じように枕《まくら》を並べて、また寝ながら語りつづけた。近く中津川を去って国学者に縁故の深い伊勢《いせ》地方へ晩年を送りに行った旧師宮川寛斎のうわさ、江戸の方にあった家を挙《あ》げて京都に移り住みたい意向であるという師平田|鉄胤《かねたね》のうわさ、枕の上で語り合うこともなかなか尽きない。半蔵は江戸の旅を、景蔵らは京都の方の話まで持ち出して、寝物語に時のたつのも忘れているうちに、やがて一番|鶏《どり》が鳴いた。

       二

「あなた、佐吉が飯田《いいだ》までお供をすると言っていますよ。」
 お民はそれを言って、あがりはなのところに腰を曲《こご》めながら新しい草鞋《わらじ》をつけている半蔵のそばへ来た。景蔵、香蔵の二人もしたくして伊那行きの朝を迎えていた。
「飯田行きの馬は通《かよ》っているんだろう。」と半蔵は草鞋の紐《ひも》を結びながら言う。
「けさはもう荷をつけて通りましたよ。」
「馬さえ通《かよ》っていれば大丈夫さ。」
「なにしろ、道が悪くて御苦労さまです。」
 そういうお民から半蔵は笠《かさ》を受け取った。下男の佐吉は主人らの荷物のほかに、その朝の囲炉裏で焼いた芋焼餅《いもやきもち》を背中に背負《しょ》った。一同したくができた。そこで出かけた。
 降った雪の溶けずに凍る馬籠峠の上。雪を踏み堅め踏み堅めしてある街道には、猿羽織《さるばおり》を着た村の小娘たちまでが集まって、一年の中の最も楽しい季節を迎え顔に遊び戯れている。愛らしい軽袗《かるさん》ばきの姿に、鳶口《とびぐち》を携え、坂になった往来の道を利用して、朝早くから氷|滑《すべ》りに余念もない男の子の中には、半蔵が家の宗太もいる。
 一日は一日より、白さ、寒さ、深さを増す恵那山《えなさん》連峰の谿谷《けいこく》を右手に望みながら、やがて半蔵は連れと一緒に峠の上を離れた。木曾山森林保護の目的で尾州藩から見張りのために置いてある役人の駐在所は一石栃《いちこくとち》(略称、一石)にある。いわゆる白木の番所だ。番所の屋根から立ちのぼる煙も沢深いところだ。その辺は馬籠峠の裏山つづきで、やがて大きな木曾谷の入り口とも言うべき男垂山《おたるやま》の付近へと続いて行っている。この地勢のやや窮まったところに、雪崩《なだれ》をも押し流す谿流の勢いを見せて、凍った花崗石《みかげいし》の間を落ちて来ているのが蘭川《あららぎがわ》だ。木曾川の支流の一つだ。そこに妻籠《つまご》手前の橋場があり、伊那への通路がある。
 蘭川の谷の昔はくわしく知るよしもない。ただしかし、尾張美濃から馬籠峠を経て、伊那|諏訪《すわ》へと進んだ遠い昔の人の足跡をそこに想像することはできる。そこにはまた、幾世紀の長さにわたるかと思われるような沈黙と寂寥《せきりょう》との支配する原生林の大きな沢を行く先に見つけることもできる。蘭《あららぎ》はこの谷に添い、山に倚《よ》っている村だ。全村が生活の主《おも》な資本《もとで》を山林に仰いで、木曾名物の手工業に親代々からの熟練を見せているのもそこだ。そこで造らるる檜木笠《ひのきがさ》の匂《にお》いと、石垣《いしがき》の間を伝って来る温暖《あたたか》な冬の清水《しみず》と、雪の中にも遠く聞こえる犬や鶏の声と。しばらく半蔵らはその山家の中の山家とも言うべきところに足を休めた。
 そこまで行くと、水戸浪士の進んで来た清内路《せいないじ》も近い。清内路の関所と言えば、飯田藩から番士を出張させてある山間《やまあい》の関門である。千余人からの浪士らの同勢が押し寄せて来た当時、飯田藩で間道通過を黙許したものなら、清内路の関所を預かるものがそれをするにさしつかえがあるまいとは、番士でないものが考えても一応言い訳の立つ事柄である。飯田藩の家老と運命を共にしたという関所番が切腹のうわさは、半蔵らにとってまだ実に生々《なまなま》しかった。


 蘭《あららぎ》から道は二つに分かれる。右は清内路に続き、左は広瀬、大平《おおだいら》に続いている。半蔵らはその左の方の道を取った。時には樅《もみ》、檜木《ひのき》、杉《すぎ》などの暗い木立ちの間に出、時には栗《くり》、その他の枯れがれな雑木の間の道にも出た。そして越えて来た蘭川の谷から広瀬の村までを後方に振り返って見ることのできるような木曾峠の上の位置に出た。枝と枝を交えた常磐木《ときわぎ》がささえる雪は恐ろしい音を立てて、半蔵らが踏んで行く路傍に崩《くず》れ落ちた。黒い木、白い雪の傾斜――一同の目にあるものは、ところまだらにあらわれている冬の山々の肌《はだ》だった。
 昼すこし過ぎに半蔵らは大平峠の上にある小さな村に着いた。旅するものはもとより、荷をつけて中津川と飯田の間を往復する馬方なぞの必ず立ち寄る休み茶屋がそこにある。まず笠《かさ》を脱いで炉ばたに足を休めようとしたのは景蔵だ。香蔵も半蔵も草鞋《わらじ》ばきのままそのそばにふん込《ご》んで、雪にぬれた足袋《たび》の先をあたためようとした。
「どれ、芋焼餅《いもやきもち》でも出さずか。」
 と供の佐吉は言って、馬籠から背負《しょ》って来た風呂敷包みの中のものをそこへ取り出した。
「山で食えば、焼きざましの炙《あぶ》ったのもうまからず。」
 とも言い添えた。
 炉にくべた枯れ枝はさかんに燃えた。いくつかの芋焼餅は、火に近く寄せた鉄の渡しの上に並んだ。しばらく一同はあかあかと燃え上がる火をながめていたが、そのうちに焼餅もよい色に焦げて来る。それを割ると蕎麦粉《そばこ》の香と共に、ホクホクするような白い里芋《さといも》の子があらわれる。大根おろしはこれを食うになくてならないものだ。佐吉はそれを茶屋の婆《ばあ》さんに頼んで、熱い焼餅におろしだまりを添え、主人や客にも勧めれば自分でも頬《ほお》ばった。
 その時、※[#「くさかんむり/稾」、171−13]頭巾《わらずきん》をかぶって鉄砲をかついだ一人の猟師が土間のところに来て立った。
「これさ、休んでおいでや。」
 と声をかけるのは、勝手口の流しもとに皿小鉢《さらこばち》を洗う音をさせている婆さんだ。半蔵は炉ばたにいて尋ねて見た。
「お前はこの辺の者かい。」
「おれかなし。おれは清内路だ。」
 肩にした鉄砲と一緒に一羽の獲物《えもの》の山鳥をそこへおろしての猟師の答えだ。
 清内路と聞くと、半蔵は炉ばたから離れて、その男の方へ立って行った。見ると、耳のとがった、尻尾《しっぽ》の上に巻き揚がった猟犬をも連れている。こいつはその鋭い鼻ですぐに炉ばたの方の焼餅の匂《にお》いをかぎつけるやつだ。
「妙なことを尋ねるようだが、お前はお関所の話をよく知らんかい。」と半蔵が言った。
「おれが何を知らすか。」と猟師は※[#「くさかんむり/稾」、172−6]頭巾を脱ぎながら答える。
「お前だって、あのお関所番のことは聞いたろうに。」
「うん、あの話か。おれもそうくわしいことは知らんぞなし。なんでも、水戸浪士が来た時に、飯田のお侍様が一人と、二、三十人の足軽の組が出て、お関所に詰めていたげな。そんな小勢でどうしようもあらすか。通るものは通れというふうで、あのお侍様も黙って見てござらっせいたそうな。」と言って、猟師は気をかえて、「おれは毎日鉄砲打ちで、山ばかり歩いていて、お関所番の亡《な》くなったこともあとから聞いた。そりゃ、お前さま、この茶屋の婆さんの方がよっぽどくわしい。おれはこんな犬を相手だが、ここの婆さんはお客さまを相手だで。」


 日暮れごろに半蔵らは飯田の城下町にはいった。水戸浪士が間道通過のあとをうけてこの地方に田沼侯の追討軍を迎えることになった飯田では、またまた一時大騒ぎを繰り返したというところへ着いた。
 飯田藩の家老が切腹の事情は、中津川や馬籠から来た庄屋問屋のうかがい知るところではなかった。しかし、半蔵らは木曾地方に縁故の深いこの町の旅籠屋《はたごや》に身を置いて見て、ほぼその悲劇を想像することはできた。人が激しい運命に直面した時は身をもってそれに当たらねばならない。何ゆえにこの家老は一藩の重きに任ずる身で、それほどせっぱ詰まった運命に直面しなければならなかったか。半蔵らに言わせると、当時は幕府閣僚の権威が強くなって、何事につけても権威をもって高二万石にも達しない飯田のような外藩にまで臨もうとするからである。その強い権威の目から見たら、飯田藩が弓矢沢の防備を撤退したはもってのほかだと言われよう。間道の修繕を加えたはもってのほかだと言われよう。飯田町が水戸浪士に軍資金三千両の醵出《きょしゅつ》を約したことなぞはなおなおもってのほかだと言われよう。しかし、砥沢口《とざわぐち》合戦の日にも和田峠に近づかず、諏訪《すわ》松本両勢の苦戦をも救おうとせず、必ず二十里ずつの距離を置いて徐行しながら水戸浪士のあとを追って来たというのも、そういう幕府の追討総督だ。
 ともあれ、この飯田藩家老の死は強い力をもって伊那地方に散在する平田門人を押した。もともと飯田藩では初めから戦いを避けようとしたでもない。御会所の軍議は籠城《ろうじょう》のことに一決され、もし浪士らが来たら市内は焼き払われて戦乱の巷《ちまた》ともなるべく予想されたから、飯田の町としては未曾有《みぞう》の混乱状態を現出した際に、それを見かねてたち上がったのが北原稲雄兄弟であるからだ。稲雄がその弟の豊三郎をして地方係りと代官とに提出させた意見書の中には、高崎はじめ諏訪《すわ》高遠《たかとお》の領地をも浪士らが通行の上のことであるから、当飯田の領分ばかりが恥辱にもなるまいとの意味のことが認《したた》めてあった。豊三郎はそれをもって、おりから軍議最中の飯田城へ駆けつけたところ、郡奉行《こおりぶぎょう》はひそかに彼を別室に招き間道通過に尽力すべきことを依託したという。その足で豊三郎は飯田の町役人とも会見した。もし北原兄弟の尽力で、兵火戦乱の災《わざわい》から免れることができるなら、これに過ぎた町の幸福《しあわせ》はない、ついては町役人は合議の上で、十三か町の負担をもって、翌日浪士軍に中食を供し、かつ三千両の軍資金を醵出《きょしゅつ》すべき旨《むね》の申し出があったというのもその時だ。もっとも、この金の調達はおくれ、そのうち千両だけできたのを持って浪士軍を追いかけたものがあるが、はたして無事にその金を武田藤田らの手に渡しうるかどうかは疑問とされていた。
「これを責めるとは、酷だ。」
 その声は伊那地方にある同門の人たちを奮いたたせた。上にあって飯田藩の責任を問う人よりもさらによく武士らしい責任を知っていたというべき家老や関所番の死を憐《あわれ》むものが続々と出て来て、手向《たむ》けの花や線香がその新しい墓地に絶えないという時だ。半蔵が景蔵や香蔵と一緒に伊那の谷を訪れたのは、この際である。


 水戸浪士の間道通過に尽力しあわせて未曾有の混乱から飯田の町を救おうとした北原兄弟らの骨折りは、しかし決してむなしくはなかった。厳密な意味での平田篤胤没後の門人なるものは、これまで伊那の谷に
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