の元|側用人《そばようにん》で、一方の統率者なる小四郎は騎馬の側に惣金《そうきん》の馬印を立て、百人ほどの銃隊士に護《まも》られながら中央の部隊を堅めた。五十人ばかりの鎗隊士を従えた稲右衛門は梶《かじ》の葉の馬印で、副将らしい威厳を見せながらそのあとに続いた。主将耕雲斎は「奉勅」の旗を先に立て、三蓋菱《さんがいびし》の馬印を立てた百人ばかりの騎兵隊がその前に進み、二百人ばかりの歩行武者の同勢は抜き身の鎗でそのあとから続いた。山国兵部父子はもとよりその他にも親子で連れだって従軍するものもある。各部隊が護って行く思い思いの旗の文字は、いずれも水府義士をもって任ずる彼らの面目を語っている。その中にまじる「百花の魁《さきがけ》」とは、中世以来の堅い殻《から》を割ってわずかに頭を持ち上げようとするような、彼らの早い先駆感をあらわして見せている。
伊那には高遠藩《たかとおはん》も控えていた。和田峠での合戦の模様は早くも同藩に伝わっていた。松本藩の家老|水野新左衛門《みずのしんざえもん》という人の討死《うちじに》、そのほか多数の死傷に加えて浪士側に分捕《ぶんど》りせられた陣太鼓、鎗、具足、大砲なぞのうわさは高遠藩を沈黙させた。それでも幕府のきびしい命令を拒みかねて、同藩では天龍川の両岸に出兵したが、浪士らの押し寄せて来たと聞いた時は指揮官はにわかに平出《ひらで》の陣地を撤退して天神山《てんじんやま》という方へ引き揚げた。それからの浪士らは一層勇んで一団となった行進を続けることができた。
進み過ぎる部隊もなく、おくれる部隊もなかった。中にはめずらしい放吟の声さえ起こる。馬上で歌を詠ずるものもある。路傍《みちばた》の子供に菓子などを与えながら行くものもある。途中で一行におくれて、また一目散に馬を飛ばす十六、七歳の小冠者《こかんじゃ》もある。
こんなふうにしてさらに谷深く進んだ。二十二日には浪士らは上穂《かみほ》まで動いた。そこまで行くと、一万七千石を領する飯田《いいだ》城主|堀石見守《ほりいわみのかみ》は部下に命じて市田村《いちだむら》の弓矢沢というところに防禦《ぼうぎょ》工事を施し、そこに大砲数門を据《す》え付けたとの報知《しらせ》も伝わって来た。浪士らは一つの難関を通り過ぎて、さらにまた他の難関を望んだ。
「わたしたちは水戸の諸君に同情してまいったんです。実は、あなたがたの立場を思い、飯田藩の立場を思いまして、及ばずながら斡旋《あっせん》の労を執りたい考えで同道してまいりました。わたしたちは三人とも平田|篤胤《あつたね》の門人です。」
浪士らの幹部の前には、そういうめずらしい人たちがあらわれた。そのうちの一人《ひとり》は伊那座光寺《いなざこうじ》にある熱心な国学の鼓吹者《こすいしゃ》仲間で、北原稲雄が弟の今村豊三郎《いまむらとよさぶろう》である。一人は将軍最初の上洛《じょうらく》に先立って足利尊氏《あしかがたかうじ》が木像の首を三条河原《さんじょうがわら》に晒《さら》した示威の関係者、あの事件以来伊那に来て隠れている暮田正香《くれたまさか》である。
入り込んで来る間諜《かんちょう》を警戒する際で、浪士側では容易にこの三人を信じなかった。その時応接に出たのは道中|掛《がか》りの田村宇之助《たむらうのすけ》であったが、字之助は思いついたように尋ねた。
「念のためにうかがいますが、伊那の平田御門人は『古史伝』の発行を企てているように聞いています。あれは何巻まで行ったでしょうか。」
「そのことですか。今じゃ第四|帙《ちつ》まで進行しております。一帙四巻としてありますが、もう第十六の巻《まき》を出しました。お聞き及びかどうか知りませんが、その上木《じょうぼく》を思い立ったのは座光寺の北原稲雄です。これにおります今村豊三郎の兄に当たります。」正香が答えた。
こんなことから浪士らの疑いは解けた。そこへ三人が持ち出して、及ばずながら斡旋の労を執りたいというは、浪士らに間道の通過を勧め、飯田藩との衝突を避けさせたいということだった。正香や豊三郎は一応浪士らの意向を探りにやって来たのだ。もとより浪士側でも戦いを好むものではない。飯田藩を傷つけずに済み、また浪士側も傷つかずに済むようなこの提案に不賛成のあろうはずもない。異議なし。それを聞いた三人は座光寺の方に待っている北原稲雄へもこの情報を伝え、飯田藩ともよく交渉を重ねて来ると言って、大急ぎで帰って行った。
二十三日には浪士らは片桐《かたぎり》まで動いた。その辺から飯田へかけての谷間《たにあい》には、数十の郷村が天龍川の両岸に散布している。岩崎|長世《ながよ》、北原稲雄、片桐|春一《しゅんいち》らの中心の人物をはじめ、平田篤胤没後の門人が堅く根を張っているところだ。飯田に、山吹《やまぶき》に、伴野《ともの》に、阿島《あじま》に、市田に、座光寺に、その他にも熱心な篤胤の使徒を数えることができる。この谷だ。今は黙ってみている場合でないとして、北原|兄弟《きょうだい》のような人たちがたち上がったのに不思議もない。
その片桐まで行くと、飯田の城下も近い。堀石見守《ほりいわみのかみ》の居城はそこに測りがたい沈黙を守って、浪士らの近づいて行くのを待っていた。その沈黙の中には御会所での軍議、にわかな籠城《ろうじょう》の準備、要所要所の警戒、その他、どれほどの混乱を押し隠しているやも知れないかのようであった。万一、同藩で籠城のことに決したら、市内はたちまち焼き払われるであろう。その兵火戦乱の恐怖は老若男女の町の人々を襲いつつあった。
夜、武田《たけだ》本陣にあてられた片桐の問屋へは、飯田方面から、豊三郎が兄の北原稲雄と一緒に早|駕籠《かご》を急がせて来た。その時、浪士側では横田東四郎と藤田《ふじた》小四郎とが応接に出た。飯田藩として間道の通過を公然と許すことは幕府に対し憚《はばか》るところがあるからと言い添えながら、北原兄弟は町役人との交渉の結果を書面にして携えて来た。その書面には左の三つの条件が認《したた》めてあった。
一、飯田藩は弓矢沢の防備を撤退すること。
二、間道に修繕を加うること。
三、飯田町にて軍資金三千両を醵出《きょしゅつ》すること。
「お前はこの辺の百姓か。人足の手が足りないから、鎗《やり》をかついで供をいたせ。」
「いえ、わたくしは旅の者でございます、お供をいたすことは御免こうむりましょう。」
「うんにゃ、そう言わずに、片桐の宿までまいれば許してつかわす。」
上伊那の沢渡村《さわどむら》という方から片桐宿まで、こんな押し問答の末に一人の百姓を無理押しつけに供に連れて来た浪士仲間の後殿《しんがり》のものもあった。
いよいよ北原兄弟が奔走周旋の結果、間道通過のことに決した浪士の一行は片桐出立の朝を迎えた。先鋒隊《せんぽうたい》のうちにはすでに駒場《こまば》泊まりで出かけるものもある。
後殿《しんがり》の浪士は上伊那から引ッぱって来た百姓をなかなか放そうとしなかった。その百姓は年のころ二十六、七の働き盛りで、荷物を持ち運ばせるには屈強な体格をしている。
「お前はどこの者か。」と浪士がきいた。
「わたくしですか。諏訪飯島村《すわいいじまむら》の生まれ、降蔵《こうぞう》と申します。お約束のとおり片桐までお供をいたしました。これでお暇《いとま》をいただきます。」
「何、諏訪だ?」
いきなり浪士はその降蔵を帯で縛りあげた。それから言葉をつづけた。
「その方は天誅《てんちゅう》に連れて行くから、そう心得るがいい。」
近くにある河《かわ》のところまで浪士は後ろ手にくくった百姓を引き立てた。「天誅」とはどういうわけかと降蔵が尋ねると、天誅とは首を切ることだと浪士が言って見せる。不幸な百姓は震えた。
「お武家様、わたくしは怪しい者でもなんでもございません。伊那《いな》[#「伊那」は底本では「伊奈」]辺まで用事があってまいる途中、御通行ということで差し控えていたものでございます。これからはいかようにもお供をいたしますから、お助けを願います。」
「そうか。しからば、その方は正武隊に預けるから、兵糧方《ひょうろうかた》の供をいたせ。」
人足一人を拾って行くにも、浪士らはこの調子だった。
諸隊はすでに続々間道を通過しつつある。その道は飯田の城下を避けて、上黒田で右に折れ、野底山から上飯田にかかって、今宮という方へと取った。今宮に着いたころは一同休憩して昼食をとる時刻だ。正武隊付きを命ぜられた諏訪の百姓降蔵は片桐から背負《しょ》って来た具足櫃《ぐそくびつ》をそこへおろして休んでいると、いろは付けの番号札を渡され、一本の脇差《わきざし》をも渡された。家の方へ手紙を届けたければ飛脚に頼んでやるなぞと言って、兵糧方の別当はいろいろにこの男をなだめたりすかしたりした。荷物を持ち労《つか》れたら、ほかの人足に申し付けるから、ぜひ京都まで一緒に行けとも言い聞かせた。別当はこの男の逃亡を気づかって、小用に立つにも番人をつけることを忘れなかった。
京都と聞いて、諏訪の百姓は言った。
「わたくしも国元には両親がございます。御免こうむりとうございます。お暇《いとま》をいただきとうございます。」
「そんなことを言うと天誅《てんちゅう》だぞ。」
別当の威《おど》し文句だ。
切石まで間道を通って、この浪士の諸隊は伊那の本道に出た。参州街道がそこに続いて来ている。大瀬木《おおせぎ》というところまでは、北原稲雄が先に立って浪士らを案内した。伊那にある平田門人の先輩株で、浪士間道通過の交渉には陰ながら尽力した倉沢義髄《くらさわよしゆき》も、その日は稲雄と一緒に歩いた。別れぎわに浪士らは、稲雄の骨折りを感謝し、それに報いる意味で記念の陣羽織を贈ろうとしたが、稲雄の方では幕府の嫌疑《けんぎ》を慮《おもんぱか》って受けなかった。
その日の泊まりと定められた駒場《こまば》へは、平田派の同志のものが集まった。暮田正香と松尾誠《まつおまこと》(松尾|多勢子《たせこ》の長男)とは伴野《ともの》から。増田平八郎《ますだへいはちろう》と浪合佐源太《なみあいさげんた》とは浪合から。駒場には同門の医者山田|文郁《ぶんいく》もある。武田本陣にあてられた駒場の家で、土地の事情にくわしいこれらの人たちはこの先とも小藩や代官との無益な衝突の避けられそうな山国の間道を浪士らに教えた。その時、もし参州街道を経由することとなれば名古屋の大藩とも対抗しなければならないこと、のみならず非常に道路の険悪なことを言って見せるのは浪合から来た連中だ。木曾路から中津川辺へかけては熱心な同門のものもある、清内路《せいないじ》の原|信好《のぶよし》、馬籠《まごめ》の青山半蔵、中津川の浅見景蔵、それから峰谷《はちや》香蔵なぞは、いずれも水戸の人たちに同情を送るであろうと言って見せるのは伴野から来た連中だ。
清内路を経て、馬籠、中津川へ。浪士らの行路はその時変更せらるることに決した。
「諸君――これから一里北へ引き返してください。山本というところから右に折れて、清内路の方へ向かうようにしてください。」
道中掛りはそのことを諸隊に触れて回った。
伊那の谷から木曾の西のはずれへ出るには、大平峠《おおだいらとうげ》を越えるか、梨子野峠《なしのとうげ》を越えるか、いずれにしても奥山の道をたどらねばならない。木曾下四宿への当分|助郷《すけごう》、あるいは大助郷の勤めとして、伊那百十九か村の村民が行き悩むのもその道だ。木から落ちる山蛭《やまびる》、往来《ゆきき》の人に取りつく蚋《ぶよ》、勁《つよ》い風に鳴る熊笹《くまざさ》、そのおりおりの路傍に見つけるものを引き合いに出さないまでも、昼でも暗い森林の谷は四里あまりにわたっている。旅するものはそこに杣《そま》の生活と、わずかな桑畠《くわばたけ》と、米穀も実らないような寒い土地とを見いだす。その深い山間《やまあい》を分けて、浪士らは和田峠合戦以来の負傷者から十数門の大砲までも運ばねばならない。
三
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