河原のようになって、おまけに土は赤土と来ているから、嶮岨《けんそ》な道筋での継立《つぎた》ても人馬共に容易でないことを思い出した。冬春の雪道、あるいは凍り道などのおりはことに荷物の運搬も困難で、宿方役人どもをはじめ、伝馬役《てんまやく》、歩行役、七里役等の辛労は言葉にも尽くされないもののあることを思い出した。病み馬、疲れ馬のできるのも無理のないことを思い出した。郷里の方にいる時こそ、宿方と助郷村々との利害の衝突も感じられるようなものだが、遠く江戸へ離れて来て見ると、街道筋での奉公には皆同じように熱い汗を流していることを思い出した。彼は郷里の街道のことを考え、江戸を見た目でもう一度あの宿場を見うる日のことを考え、そこに働く人たちと共に武家の奉公を忍耐しようとした。


 徳川幕府の頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》し、あわせてこの不景気のどん底から江戸を救おうとするような参覲交代《さんきんこうたい》の復活は、半蔵らが出発以前にすでに触れ出された。
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一、万石《まんごく》以上の面々ならびに交代寄合《こうたいよりあい》、参覲の年割《ねんわ》り御猶予成し下され候《そうろう》旨《むね》、去々|戌年《いぬどし》仰せ出《いだ》され候ところ、深き思《おぼ》し召しもあらせられ候につき、向後《こうご》は前々《まえまえ》お定めの割合に相心得《あいこころえ》、参覲交代これあるべき旨、仰せ出さる。
一、万石以上の面々ならびに交代寄合、その嫡子在国しかつ妻子国もとへ引き取り候とも勝手たるべき次第の旨、去々戌年仰せ出され、めいめい国もとへ引き取り候面々もこれあり候ところ、このたび御進発も遊ばされ候については、深き思し召しあらせられ候につき、前々の通り相心得、当地(江戸)へ呼び寄せ候よういたすべき旨、仰せ出さる。
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 このお触れ書の中に「御進発」とあるは、行く行く将軍の出馬することもあるべき大坂城への進発をさす。尾張大納言《おわりだいなごん》を総督にする長州征討軍の進発をさす。
 三人の庄屋には、道中奉行から江戸に呼び出され、諸大名通行の難関たる木曾地方の事情を問いただされ、たとい一時的の応急策たりとも宿駅補助のお手当てを下付された意味が、このお触れ書の発表で一層はっきりした。
 江戸は、三人の庄屋にとって、もはやぐずぐずしているべきところではなかった。
「長居は無用だ。」
 そう考えるのは、ひとり用心深い平助ばかりではなかったのだ。
 しかし、郷里の方の空も心にかかって、三人の庄屋がそこそこに江戸を引き揚げようとしたのは、彼らの滞在が六月から十月まで長引いたためばかりでもなかったのである。出発の前日、筑波《つくば》の方の水戸浪士の動静について、確かな筋へ届いたといううわさを東片町の屋敷から聞き込んで来たものもあったからで。
 出発の日には、半蔵はすでに十一屋の方に移って、同行の庄屋たちとも一緒になっていたが、そのまま江戸をたって行くに忍びなかった。多吉夫婦に別れを告げるつもりで、ひとりで朝早く両国の旅籠屋《はたごや》を出た。霜だ。まだ人通りも少ない両国橋の上に草鞋《わらじ》の跡をつけて、彼は急いで相生町の家まで行って見た。青い河内木綿《かわちもめん》の合羽《かっぱ》に脚絆《きゃはん》をつけたままで門口から訪れる半蔵の道中姿を見つけると、小娘のお三輪は多吉やお隅《すみ》を呼んだ。
「オヤ、もうお立ちですか。すっかりおしたくもできましたね。」
 と言うお隅のあとから、多吉もそこへ挨拶《あいさつ》に来る。その時、多吉はお隅に言いつけて、紺木綿の切れの編みまぜてある二足の草鞋を奥から持って来させた。それを餞別《せんべつ》のしるしにと言って、風呂敷包《ふろしきづつ》みにして半蔵の前に出した。
「これは何よりのものをいただいて、ありがたい。」
「いえ、お邪魔かもしれませんが、道中でおはきください。それでも宅が心がけまして、わざわざ造らせたものですよ。」
「多吉さんは多吉さんらしいものをくださる。」
 あわただしい中にも、半蔵は相生町の家の人とこんな言葉をかわした。
 多吉は別れを惜しんで、せめて十一屋までは見送ろうと言った。暇乞《いとまご》いして行く半蔵の後ろから、尻端《しりはし》を折りながら追いかけて来た。
「青山さん、あなたの荷物は。」
「荷物ですか。きのうのうちに馬が頼んであります。」
「それにしても、早いお立ちですね。実は吾家《うち》から立っていただきたいと思って、お隅ともその話をしていたんですけれど、連れがありなさるんじゃしかたがない。この次ぎ、江戸へお出かけになるおりもありましたら、ぜひお訪《たず》ねください。お宿はいつでもいたしますよ。」
「さあ、いつまた出かけて来られますかさ。」
「ほんとに、これも何かの御縁かと思いますね。」
 両国十一屋の方には、幸兵衛、平助の二人《ふたり》がもう草鞋《わらじ》まではいて、半蔵を待ち受けていた。頼んで置いた馬も来た。その日はお茶壺《ちゃつぼ》の御通行があるとかで、なるべく朝のうちに出発しなければならなかった。半蔵は大小二|荷《か》の旅の荷物を引きまとめ、そのうち一つは琉球《りゅうきゅう》の莚包《こもづつ》みにして、同行の庄屋たちと共に馬荷に付き添いながら板橋経由で木曾街道の方面に向かった。

       四

 四月以来、筑波《つくば》の方に集合していた水戸の尊攘派《そんじょうは》の志士は、九月下旬になって那珂湊《なかみなと》に移り、そこにある味方の軍勢と合体して、幕府方の援助を得た水戸の佐幕党《さばくとう》と戦いを交えた。この湊の戦いは水戸尊攘派の運命を決した。力尽きて幕府方に降《くだ》るものが続出した。二十三日まで湊をささえていた筑波勢は、館山《たてやま》に拠《よ》っていた味方の軍勢と合流し、一筋の血路を西に求めるために囲みを突いて出た。この水戸浪士の動きかけた方向は、まさしく上州路《じょうしゅうじ》から信州路に当たっていたのである。木曾の庄屋たちが急いで両国の旅籠屋を引き揚げて行ったのは、この水戸地方の戦報がしきりに江戸に届くころであった。
 筑波の空に揚がった高い烽火《のろし》は西の志士らと連絡のないものではなかった。筑波の勢いが大いに振《ふる》ったのは、あだかも長州の大兵が京都包囲のまっ最中であったと言わるる。水長二藩の提携は従来幾たびか画策せられたことであって、一部の志士らが互いに往来し始めたのは安藤老中《あんどうろうじゅう》要撃の以前にも当たる。東西相呼応して起こった尊攘派の運動は、西には長州の敗退となり、東には水戸浪士らの悪戦苦闘となった。
 湊《みなと》を出て西に向かった水戸浪士は、石神村《いしがみむら》を通過して、久慈郡大子村《くじごおりだいごむら》をさして進んだが、討手《うって》の軍勢もそれをささえることはできなかった。それから月折峠《つきおれとうげ》に一戦し、那須《なす》の雲巌寺《うんがんじ》に宿泊して、上州路に向かった。
 この一団はある一派を代表するというよりも、有為な人物を集めた点で、ほとんど水戸志士の最後のものであった。その人数は、すくなくも九百人の余であった。水戸領内の郷校に学んだ子弟が、なんと言ってもその中堅を成す人たちであったのだ。名高い水戸の御隠居(烈公《れっこう》)が在世の日、領内の各地に郷校を設けて武士庶民の子弟に文武を習わせた学館の組織はやや鹿児島《かごしま》の私学校に似ている。水戸浪士の運命をたどるには、一応彼らの気質を知らねばならない。


 寺がある。付近は子供らの遊び場処である。寺には閻魔《えんま》大王の木像が置いてある。その大王の目がぎらぎら光るので、子供心にもそれを水晶であると考え、得がたい宝石を欲《ほ》しさのあまり盗み取るつもりで、昼でも寂しいその古寺の内へ忍び込んだ一人《ひとり》の子供がある。木像に近よると、子供のことで手が届かない。閻魔王の膝《ひざ》に上り、短刀を抜いてその目をえぐり取り、莫大《ばくだい》な分捕《ぶんど》り品でもしたつもりで、よろこんで持ち帰った。あとになってガラスだと知れた時は、いまいましくなってその大王の目を捨ててしまったという。これが九歳にしかならない当時の水戸の子供だ。
 森がある。神社の鳥居がある。昼でも暗い社頭の境内がある。何げなくその境内を行き過ぎようとして、小僧待て、と声をかけられた一人の少年がある。見ると、神社の祭礼のおりに、服装のみすぼらしい浪人とあなどって、腕白盛《わんぱくざか》りのいたずらから多勢を頼みに悪口を浴びせかけた背の高い男がそこにたたずんでいる。浪人は一人ぽっちの旅烏《たびがらす》なので、祭りのおりには知らぬ顔で通り過ぎたが、その時は少年の素通りを許さなかった。よくも悪口雑言《あっこうぞうごん》を吐いて祭りの日に自分を辱《はずか》しめたと言って、一人と一人で勝負をするから、その覚悟をしろと言いながら、刀の柄《つか》に手をかけた。少年も負けてはいない。かねてから勝負の時には第一撃に敵を斬《き》ってしまわねば勝てるものではない、それには互いに抜き合って身構えてからではおそい。抜き打ちに斬りつけて先手を打つのが肝要だとは、日ごろ親から言われていた少年のことだ。居合《いあい》の心得は充分ある。よし、とばかり刀の下《さ》げ緒《お》をとって襷《たすき》にかけ、袴《はかま》の股立《ももだ》ちを取りながら先方の浪人を見ると、その身構えがまるで素人《しろうと》だ。掛け声勇ましくこちらは飛び込んで行った。抜き打ちに敵の小手《こて》に斬りつけた。あいにくと少年のことで、一尺八寸ばかりの小脇差《こわきざし》しか差していない。その尖端《せんたん》が相手に触れたか触れないくらいのことに先方の浪人は踵《きびす》を反《かえ》して、一目散に逃げ出した。こちらもびっくりして、抜き身の刀を肩にかつぎながら、あとも見ずに逃げ出して帰ったという。これがわずかに十六歳ばかりの当時の水戸の少年だ。
 二階がある。座敷がある。酒が置いてある。その酒楼の二階座敷の手摺《てすり》には、鎗《やり》ぶすまを造って下からずらりと突き出した数十本の抜き身の鎗がある。町奉行のために、不逞《ふてい》の徒の集まるものとにらまれて、包囲せられた二人《ふたり》の侍がそこにある。なんらの罪を犯した覚えもないのに、これは何事だ、と一人の侍が捕縛に向かって来たものに尋ねると、それは自分らの知った事ではない。足下《そっか》らを引致《いんち》するのが役目であるとの答えだ。しからば同行しようと言って、数人に護《まも》られながら厠《かわや》にはいった時、一人の侍は懐中の書類をことごとく壺《つぼ》の中に捨て、刀を抜いてそれを深く汚水の中に押し入れ、それから身軽になって連れの侍と共に引き立てられた。罪人を乗せる網の乗り物に乗せられて行った先は、町奉行所だ。厳重な取り調べがあった。証拠となるべきものはなかったが、二人とも小人目付《こびとめつけ》に引き渡された。ちょうど水戸藩では佐幕派の領袖《りょうしゅう》市川三左衛門《いちかわさんざえもん》が得意の時代で、尊攘派征伐のために筑波《つくば》出陣の日を迎えた。邸内は雑沓《ざっとう》して、侍たちについた番兵もわずかに二人のみであった。夕方が来た。囚《とら》われとなった連れの侍は仲間にささやいて言う。自分はかの反対党に敵視せらるること久しいもので、もしこのままにいたら斬《き》られることは確かである、彼らのために死ぬよりもむしろ番兵を斬りたおして逃げられるだけ逃げて見ようと思うが、どうだと。それを聞いた一人の方の侍はそれほど反対党から憎まれてもいなかったが、同じ囚われの身でありながら、行動を共にしないのは武士のなすべきことでないとの考えから、その夜の月の出ないうちに脱出しようと約束した。待て、番士に何の罪もない、これを斬るはよろしくない、一つ説いて見ようとその侍が言って、番士を一室に呼び入れた。聞くところによると水府は今非常な混乱に陥っている、これは国家危急の秋《とき》
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