で武士の坐視《ざし》すべきでない、よって今からここを退去する、幸いに見のがしてくれるならあえてかまわないが万一職務上見のがすことはならないとあるならやむを得ない、自分らの刀の切れ味を試みることにするが、どうだ。それを言って、刀を引き寄せ、鯉口《こいぐち》を切って見せた。二人の番士はハッと答えて、平伏したまま仰ぎ見もしない。しからば御無礼する、あとの事はよろしく頼む、そう言い捨てて、侍は二人ともそこを立ち去り、庭から墻《かき》を乗り越えて、その夜のうちに身を匿《かく》したという。これが当時の水戸の天狗連《てんぐれん》だ。
水戸人の持つこのたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられた。かつては横浜在留の外国人にも。井伊大老もしくは安藤老中のような幕府当局の大官にも。これほど敵を攻撃することにかけては身命をも賭《と》してかかるような気性《きしょう》の人たちが、もしその正反対を江戸にある藩主の側にも、郷里なる水戸城の内にも見いだしたとしたら。
水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もない。それは実に藩論分裂の形であらわれて来た。もとより、一般の人心は動揺し、新しい世紀もようやくめぐって来て、だれもが右すべきか左すべきかと狼狽《ろうばい》する時に当たっては、二百何十年来の旧を守って来た諸藩のうちで藩論の分裂しないところとてもなかった。水戸はことにそれが激しかったのだ。『大日本史』の大業を成就して、大義名分を明らかにし、学問を曲げてまで世に阿《おもね》るものもある徳川時代にあってとにもかくにも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。彰考館《しょうこうかん》の修史、弘道館《こうどうかん》の学問は、諸藩の学風を指導する役目を勤めた。当時における青年で多少なりとも水戸の影響を受けないものはなかったくらいである。いかんせん、水戸はこの熱意をもって尊王佐幕の一大矛盾につき当たった。あの波瀾《はらん》の多い御隠居の生涯《しょうがい》がそれだ。遠く西山公《せいざんこう》以来の遺志を受けつぎ王室尊崇の念の篤《あつ》かった御隠居は、紀州や尾州の藩主と並んで幕府を輔佐する上にも人一倍責任を感ずる位置に立たせられた。この水戸の苦悶《くもん》は一方に誠党と称する勤王派の人たちを生み、一方に奸党《かんとう》と呼ばるる佐幕派の人たちを生んだ。一つの藩は裂けてたたかった。当時諸藩に党派争いはあっても、水戸のように惨酷《ざんこく》をきわめたところはない。誠党が奸党を見るのは極悪《ごくあく》の人間と心の底から信じたのであって、奸党が誠党を見るのもまたお家の大事も思わず御本家大事ということも知らない不忠の臣と思い込んだのであった。水戸の党派争いはほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあるものだと言った人もある。いわゆる誠党は天狗連《てんぐれん》とも呼び、いわゆる奸党は諸生党とも言った。当時の水戸藩にある才能の士で、誠でないものは奸、奸でないものは誠、両派全く分かれて相鬩《あいせめ》ぎ、その中間にあるものをば柳と呼んだ。市川三左衛門をはじめ諸生党の領袖《りょうしゅう》が国政を左右する時を迎えて見ると、天狗連の一派は筑波山の方に立てこもり、田丸稲右衛門《たまるいなえもん》を主将に推し、亡《な》き御隠居の御霊代《みたましろ》を奉じて、尊攘の志を致《いた》そうとしていた。かねて幕府は水戸の尊攘派を毛ぎらいし、誠党領袖の一人なる武田耕雲斎《たけだこううんさい》と筑波に兵を挙《あ》げた志士らとの通謀を疑っていた際であるから、早速《さっそく》耕雲斎に隠居慎《いんきょつつし》みを命じ、諸生党の三左衛門らを助けて筑波の暴徒を討《う》たしめるために関東十一藩の諸大名に命令を下した。三左衛門は兵を率いて江戸を出発し、水戸城に帰って簾中《れんちゅう》母公|貞芳院《ていほういん》ならびに公子らを奉じ、その根拠を堅めた。これを聞いた耕雲斎らは水戸家の存亡が今日にあるとして、幽屏《ゆうへい》の身ではあるが禁を破って水戸を出発した。そして江戸にある藩主を諫《いさ》めて奸徒《かんと》の排斥を謀《はか》ろうとした。かく一藩が党派を分かち、争闘を事とし、しばらくも鎮静する時のなかったため、松平|大炊頭《おおいのかみ》(宍戸侯《ししどこう》)は藩主の目代《もくだい》として、八月十日に水戸の吉田に着いた。ところが、水戸にある三左衛門はこの鎮撫《ちんぶ》の使者に随行して来たものの多くが自己の反対党であるのを見、その中には京都より来た公子|余四麿《よしまろ》の従者や尊攘派の志士なぞのあるのを見、大炊頭が真意を疑って、その入城を拒んだ。朋党《ほうとう》の乱はその結果であった。
混戦が続いた。大炊頭、耕雲斎、稲右衛門、この三人はそれぞれの立場にあったが、尊攘の志には一致していた。水戸城を根拠とする三左衛門らを共同の敵とすることにも一致した。湊《みなと》の戦いで、大炊頭が幕府方の田沼玄蕃頭《たぬまげんばのかみ》に降《くだ》るころは、民兵や浮浪兵の離散するものも多かった。天狗連の全軍も分裂して、味方の陣営に火を放ち、田沼侯に降るのが千百人の余に上った。稲右衛門の率いる筑波勢の残党は湊の戦地から退いて、ほど近き館山《たてやま》に拠《よ》る耕雲斎の一隊に合流し、共に西に走るのほかはなかったのである。湊における諸生党の勝利は攘夷をきらっていた幕府方の応援を得たためと、形勢を観望していた土民の兵を味方につけたためであった。一方、天狗党では、幹部として相応名の聞こえた田中|源蔵《げんぞう》が軍用金調達を名として付近を掠奪《りゃくだつ》し、民心を失ったことにもよると言わるるが、軍資の供給をさえ惜しまなかったという長州方の京都における敗北が水戸の尊攘派にとっての深い打撃であったことは争われない。
西の空へと動き始めた水戸浪士の一団については、当時いろいろな取りざたがあった。行く先は京都だろうと言うものがあり、長州まで落ち延びるつもりだろうと言うものも多かった。
しかし、これは亡《な》き水戸の御隠居を師父と仰ぐ人たちが、従二位大納言《じゅにいだいなごん》の旗を押し立て、その遺志を奉じて動く意味のものであったことを忘れてはならない。九百余人から成る一団のうち、水戸の精鋭をあつめたと言わるる筑波組は三百余名で、他の六百余名は常陸《ひたち》下野《しもつけ》地方の百姓であった。中にはまた、京都方面から応援に来た志士もまじり、数名の婦人も加わっていた。二名の医者までいた。その堅い結び付きは、実際の戦闘力を有するものから、兵糧方《ひょうろうかた》、賄方《まかないかた》、雑兵《ぞうひょう》、歩人《ぶにん》等を入れると、千人以上の人を動かした。軍馬百五十頭、それにたくさんな小荷駄《こにだ》を従えた。陣太鼓と旗十三、四本を用意した。これはただの落ち武者の群れではない。その行動は尊攘の意志の表示である。さてこそ幕府方を狼狽《ろうばい》せしめたのである。
この浪士の中には、藤田小四郎《ふじたこしろう》もいた。亡き御隠居を動かして尊攘の説を主唱した藤田|東湖《とうこ》がこの世を去ってから、その子の小四郎が実行運動に参加するまでには十一年の月日がたった。衆に先んじて郷校の子弟を説き、先輩稲右衛門を説き、日光参拝と唱えて最初から下野国大平山《しもつけのくにおおひらやま》にこもったのも小四郎であった。水戸の家老職を父とする彼もまた、四人の統率者より成る最高幹部の一人たることを失わなかった。
高崎での一戦の後、上州|下仁田《しもにた》まで動いたころの水戸浪士はほとんど敵らしい敵を見出さなかった。高崎勢は同所の橋を破壊し、五十人ばかりの警固の組で銃を遠矢に打ち掛けたまでであった。鏑川《かぶらがわ》は豊かな耕地の間を流れる川である。そのほとりから内山峠まで行って、嶮岨《けんそ》な山の地勢にかかる。朝早く下仁田を立って峠の上まで荷を運ぶに慣れた馬でも、茶漬《ちゃづ》けごろでなくては帰れない。そこは上州と信州の国境《くにざかい》にあたる。上り二里、下り一里半の極《ごく》の難場だ。千余人からの同勢がその峠にかかると、道は細く、橋は破壊してある。警固の人数が引き退いたあとと見えて、兵糧雑具等が山間《やまあい》に打ち捨ててある。浪士らは木を伐《き》り倒し、その上に蒲団《ふとん》衣類を敷き重ねて人馬を渡した。大砲、玉箱から、御紋付きの長持、駕籠《かご》までそのけわしい峠を引き上げて、やがて一同|佐久《さく》の高原地に出た。
十一月の十八日には、浪士らは千曲川《ちくまがわ》を渡って望月宿《もちづきじゅく》まで動いた。松本藩の人が姿を変えてひそかに探偵《たんてい》に入り込んで来たとの報知《しらせ》も伝わった。それを聞いた浪士らは警戒を加え、きびしく味方の掠奪《りゃくだつ》をも戒めた。十九日和田泊まりの予定で、尊攘の旗は高く山国の空にひるがえった。
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第十章
一
和田峠の上には諏訪藩《すわはん》の斥候隊が集まった。藩士|菅沼恩右衛門《すがぬまおんえもん》、同じく栗田市兵衛《くりたいちべえ》の二人《ふたり》は御取次御使番《おとりつぎおつかいばん》という格で伝令の任務を果たすため五人ずつの従者を引率して来ている。徒士目付《かちめつけ》三人、書役《かきやく》一人《ひとり》、歩兵斥候三人、おのおの一人ずつの小者を連れて集まって来ている。足軽《あしがる》の小頭《こがしら》と肝煎《きもいり》の率いる十九人の組もいる。その他には、新式の鉄砲を携えた二人の藩士も出張している。和田峠口の一隊はこれらの人数から編成されていて、それぞれ手分けをしながら斥候の任務に就《つ》いていた。
諏訪高島の城主諏訪|因幡守《いなばのかみ》は幕府閣老の一人として江戸表の方にあったが、急使を高島城に送ってよこして部下のものに防禦《ぼうぎょ》の準備を命じ、自己の領地内に水戸浪士の素通りを許すまいとした。和田宿を経て下諏訪宿に通ずる木曾街道の一部は戦闘区域と定められた。峠の上にある東餅屋《ひがしもちや》、西餅屋に住む町民らは立ち退《の》きを命ぜられた。
こんなに周囲の事情が切迫する前、高島城の御留守居《おるすい》は江戸屋敷からの早飛脚が持参した書面を受け取った。その書面は特に幕府から諏訪藩にあてたもので、水戸浪士西下のうわさを伝え、和田峠その他へ早速《さっそく》人数を出張させるようにとしてあった。右の峠の内には松本方面への抜け路《みち》もあるから、時宜によっては松本藩からも応援すべき心得で、万事取り計らうようにと仰せ出されたとしてあった。さてまた、甲府からも応援の人数を差し出すよう申しまいるやも知れないから、そのつもりに出兵の手配りをして置いて、中仙道《なかせんどう》はもとより甲州方面のことは万事手抜かりのないようにと仰せ出されたともしてあった。
このお達しが諏訪藩に届いた翌日には、江戸から表立ったお書付が諸藩へ一斉に伝達せられた。武蔵《むさし》、上野《こうずけ》、下野《しもつけ》、甲斐《かい》、信濃《しなの》の諸国に領地のある諸大名はもとより、相模《さがみ》、遠江《とおとうみ》、駿河《するが》の諸大名まで皆そのお書付を受けた。それはかなり厳重な内容のもので、筑波《つくば》辺に屯集《とんしゅう》した賊徒どものうち甲州路または中仙道《なかせんどう》方面へ多人数の脱走者が落ち行くやに相聞こえるから、すみやかに手はずして見かけ次第もらさず討《う》ち取れという意味のことが認《したた》めてあり、万一討ちもらしたら他領までも付け入って討ち取るように、それを等閑《なおざり》にしたらきっと御沙汰《ごさた》があるであろうという意味のことも書き添えてあった。同時に、幕府では三河《みかわ》、尾張《おわり》、伊勢《いせ》、近江《おうみ》、若狭《わかさ》、飛騨《ひだ》、伊賀《いが》、越後《えちご》に領地のある諸大名にまで別のお書付を回し、筑波辺の賊徒どものうちには所々へ散乱するやにも相聞こえるから、めいめいの領分はもとより、付近までも手はずをして置いて、怪
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