が動いて行ったあとには、消防用の梯子《はしご》が続いた。革羽織《かわばおり》、兜頭巾《かぶとずきん》の火事|装束《しょうぞく》をした人たちはそれらの火消し人足を引きつれて半蔵らの目の前を通り過ぎた。
長州屋敷の打ち壊《こわ》しが始まったのだ。幕府はおのれにそむくものに対してその手段に出た。江戸じゅうの火消し人足が集められて、まず日比谷《ひびや》にある毛利家《もうりけ》の上屋敷が破壊された。かねて長州方ではこの事のあるのを予期してか、あるいは江戸を見捨てるの意味よりか、先年諸大名の家族が江戸屋敷から解放されて国勝手《くにがって》の命令が出たおりに、日比谷にある長州の上屋敷では表奥《おもておく》の諸殿を取り払ったから、打ち壊されたのは四方の長屋のみであった。麻布龍土町《あざぶりゅうどちょう》の中屋敷、俗に長州の檜屋敷《ひのきやしき》と呼ぶ方にはまだ土蔵が二十か所もあって、広大な建物も残っていた。打ち壊しはそこでも始まった。大きな柱は鋸《のこぎり》や斧《おの》で伐《き》られ、それに大綱を鯱巻《しゃちま》きにして引きつぶされた。諸道具諸書物の類《たぐい》は越中島で焼き捨てられ、毛利家の定紋《じょうもん》のついた品はことごとくふみにじられた。
やがて京都にある友人景蔵からのめずらしい便《たよ》りが、両国|米沢町《よねざわちょう》十一屋あてで、半蔵のもとに届くようになった。あの年上の友人が安否のほども気づかわれていた時だ。彼は十一屋からそれを受け取って来て、相生町の二階でひらいて見た。
とりあえず彼はその手紙に目を通して、あの友人も無事、師|鉄胤《かねたね》も無事、京都にある平田同門の人たちのうち下京《しもぎょう》方面のものは焼け出されたが幸いに皆無事とあるのを確かめた。さらに彼は繰り返し読んで見た。
相変わらず景蔵の手紙はこまかい。過ぐる年の八月十七日の政変に、王室回復の志を抱《いだ》く公卿《くげ》たち、および尊攘派《そんじょうは》の志士たちと気脈を通ずる長州藩が京都より退却を余儀なくされたことを思えば、今日この事のあるのは不思議もないとして、七月十九日前後の消息を伝えてある。
池田屋の変は六月五日の早暁のことであった。守護職、所司代《しょしだい》、および新撰組《しんせんぐみ》の兵はそこに集まる諸藩の志士二十余名を捕えた。尊攘派の勢力を京都に回復し、会津《あいづ》と薩摩《さつま》との支持する公武合体派の本拠を覆《くつがえ》し、筑波山《つくばさん》の方に拠《よ》る一派の水戸の志士たちとも東西相呼応して事を挙《あ》げようとしたそれらの種々の計画は、与党の一人《ひとり》なる近江人《おうみじん》の捕縛より発覚せらるるに至った。この出来事があってから、長州方はもはや躊躇《ちゅうちょ》すべきでないとし、かねて準備していた挙兵上京の行動に移り、それを探知した幕府方もようやく伏見、大津の辺を警戒するようになった。守護職松平|容保《かたもり》のにわかな参内《さんだい》と共に、九門の堅くとざされたころは、洛中の物情騒然たるものがあった。七月十八日には三道よりする長州方の進軍がすでに開始されたとの報知《しらせ》が京都へ伝わった。夜が明けて十九日となると、景蔵は西の蛤御門《はまぐりごもん》、中立売御門《なかだちうりごもん》の方面にわくような砲声を聞き、やがて室町《むろまち》付近より洛中に延焼した火災の囲みの中にいたとある。
今度の京都の出来事を注意して見るものには、長州藩に気脈を通じていて、しかも反覆常なき二、三藩のあったことも見のがせない事実であり、堂上にはまた、この計画に荷担して幕府に反対し併《あわ》せて公武合体派を排斥しようとする有栖川宮《ありすがわのみや》をはじめ、正親町《おおぎまち》、日野、石山その他の公卿たちがあったことも見のがせない、と景蔵は言っている。烈風に乗じて火を内裏《だいり》に放ち、中川宮および松平容保の参内を途中に要撃し、その擾乱《じょうらん》にまぎれて鸞輿《らんよ》を叡山《えいざん》に奉ずる計画のあったことも知らねばならないと言ってある。流れ丸《だま》はしばしば飛んで宮中の内垣《うちがき》に及んだという。板輿《いたこし》をお庭にかつぎ入れて帝《みかど》の御動座を謀《はか》りまいらせるものがあったけれども、一橋慶喜はそれを制《おさ》えて動かなかったという。なんと言っても蛤御門の付近は最も激戦であった。この方面は会津、桑名《くわな》の護《まも》るところであったからで。皇居の西南には樟《くす》の大樹がある。築地《ついじ》を楯《たて》とし家を砦《とりで》とする戦闘はその樹《き》の周囲でことに激烈をきわめたという。その時になって長州は実にその正反対を会津に見いだしたのである。薩州勢なぞは別の方面にあって幕府方に多大な応援を与えたけれども、会津ほど正面の位置には立たなかった。ひたすら京都の守護をもって任ずる会津武士は敵として進んで来る長州勢を迎え撃ち、時には蛤御門を押し開き、筒先も恐れずに刀鎗を用いて接戦するほどの東北的な勇気をあらわしたという。
この市街戦はその日|未《ひつじ》の刻《こく》の終わりにわたった。長州方は中立売《なかだちうり》、蛤門、境町の三方面に破れ、およそ二百余の死体をのこしすてて敗走した。兵火の起こったのは巳《み》の刻《こく》のころであったが、おりから風はますます強く、火の子は八方に散り、東は高瀬川《たかせがわ》から西は堀川《ほりかわ》に及び、南は九条にまで及んで下京のほとんど全都は火災のうちにあった。年寄りをたすけ幼いものを負《おぶ》った男や女は景蔵の右にも左にもあって、目も当てられないありさまであったと認《したた》めてある。
しかし、景蔵の手紙はそれだけにとどまらない。その中には、真木和泉《まきいずみ》の死も報じてある。弘化《こうか》安政のころから早くも尊王攘夷の運動を起こして一代の風雲児と謳《うた》われた彼、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人の計画に出たと言わるる彼、この尊攘の鼓吹者《こすいしゃ》は自ら引き起こした戦闘の悲壮な空気の中に倒れて行った。彼は最後の二十一日まで踏みとどまろうとしたが、その時は山崎に退いた長州兵も散乱し、久坂《くさか》、寺島、入江らの有力な同僚も皆戦死したあとで、天王山に走って、そこで自刃した。
この真木和泉の死について、景蔵の所感もその手紙の中に書き添えてある。尊王と攘夷との一致結合をねらい、それによって世態の変革を促そうとした安政以来の志士の運動は、事実においてその中心の人物を失ったとも言ってある。平田門人としての自分らは――ことに後進な自分らは、彼真木和泉が生涯《しょうがい》を振り返って見て、もっと自分らの進路を見さだむべき時に到達したと言ってある。
半蔵はその手紙で、中津川の友人香蔵がすでに京都にいないことを知った。その手紙をくれた景蔵も、ひとまず長い京都の仮寓《かぐう》を去って、これを機会に中津川の方へ引き揚げようとしていることを知った。
真木和泉の死を聞いたことは、半蔵にもいろいろなことを考えさせた。景蔵の手紙にもあるように、対外関係のことにかけては硬派中の硬派とも言うべき真木和泉らのような人たちも、もはやこの世にいなかった。生前幕府の軟弱な態度を攻撃することに力をそそぎ、横浜|鎖港《さこう》の談判にも海外使節の派遣にもなんら誠意の見るべきものがないとし、将軍の名によって公布された幕府の攘夷もその実は名のみであるとしたそれらの志士たちも京都の一戦を最後にして、それぞれ活動の舞台から去って行った。
これに加えて、先年五月以来の長州藩が攘夷の実行は豊前《ぶぜん》田《た》の浦《うら》におけるアメリカ商船の砲撃を手始めとして、下《しも》の関《せき》海峡を通過する仏国軍艦や伊国軍艦の砲撃となり、その結果長州では十八隻から成る英米仏蘭四国連合艦隊の来襲を受くるに至った。長州の諸砲台は多く破壊せられ、長藩はことごとく撃退せられ、下の関の市街もまたまさに占領せらるるばかりの苦《にが》い経験をなめたあとで、講和の談判はどうやら下の関から江戸へ移されたとか、そんな評判がもっぱら人のうわさに上るころである。開港か、攘夷か。それは四|艘《そう》の黒船が浦賀の久里《くり》が浜《はま》の沖合いにあらわれてから以来の問題である。国の上下をあげてどれほど深刻な動揺と狼狽《ろうばい》と混乱とを経験して来たかしれない問題である。一方に攘夷派を頑迷《がんめい》とののしる声があれば、一方に開港派を国賊とののしり返す声があって、そのためにどれほどの犠牲者を出したかもしれない問題である。英米仏蘭四国を相手の苦い経験を下の関になめるまで、攘夷のできるものと信じていた人たちはまだまだこの国に少なくなかった。好《よ》かれ悪《あ》しかれ、実際に行なって見て、初めてその意味を悟ったのは、ひとり長州地方の人たちのみではなかった。その時になって見ると、全国を通じてあれほどやかましかった多年の排外熱も、ようやく行くところまで行き尽くしたかと思わせる。
三
とうとう、半蔵は他の庄屋たちと共に、道中奉行からの沙汰《さた》を九月末まで待った。奉行から話のあった仕訳書上帳《しわけかきあげちょう》の郷里から届いたのも差し出してあり、木曾十一宿総代として願書も差し出してあって、半蔵らはかわるがわる神田橋《かんだばし》外の屋敷へ足を運んだが、そのたびに今すこし待て、今すこし待てと言われるばかり。両国十一屋に滞在する平助も、幸兵衛もしびれを切らしてしまった。こんな場合に金を使ったら、尾州あたりの留守居役を通しても、もっとてきぱき運ぶ方法がありはしないかなどと謎《なぞ》をかけるものがある。そんな無責任な人の言うことが一層半蔵をさびしがらせた。
「さぞ、御退屈でしょう。」
と言って相生町《あいおいちょう》の家の亭主《ていしゅ》が深川の米問屋へ出かける前に、よく半蔵を見に来る。四か月も二階に置いてもらううちに、半蔵はこの人を多吉さんと呼び、かみさんをお隅《すみ》さんと呼び、清元《きよもと》のけいこに通《かよ》っている小娘のことをお三輪《みわ》さんと呼ぶほどの親しみを持つようになった。
「青山さん、宅じゃこんな勤めをしていますが、たまにお暇《ひま》をもらいまして、運座《うんざ》へ出かけるのが何よりの楽しみなんですよ。ごらんなさい、わたしどもの家には白い団扇《うちわ》が一本も残っていません。一夏もたって見ますと、どの団扇にも宅の発句《ほっく》が書き散らしてあるんですよ。」
お隅がそれを半蔵に言って見せると、多吉は苦笑《にがわら》いして、矢立てを腰にすることを忘れずに深川米の積んである方へ出かけて行くような人だ。
筑波《つくば》の騒動以来、関東の平野の空も戦塵《せんじん》におおわれているような時に、ここには一切の争いをよそにして、好きな俳諧《はいかい》の道に遊ぶ多吉のような人も住んでいた。生まれは川越《かわごえ》で、米問屋と酒問屋を兼ねた大きな商家の主人であったころには、川越と江戸の間を川舟でよく往来したという。生来の寡欲《かよく》と商法の手違いとから、この多吉が古い暖簾《のれん》も畳《たた》まねばならなくなった時、かみさんはまた、草鞋《わらじ》ばき尻端折《しりはしょ》りになって「おすみ団子《だんご》」というものを売り出したこともあり、一家をあげて江戸に移り住むようになってからは、夫《おっと》を助けてこの都会に運命を開拓しようとしているような健気《けなげ》な婦人だ。
そういうかみさんはまだ半蔵が妻のお民と同年ぐらいにしかならない。半蔵はこの婦人の顔を見るたびに、郷里の本陣の方に留守居するお民を思い出し、都育ちのお三輪の姿を見るたびに、母親のそばで自分の帰国を待ち受けている娘のお粂《くめ》を思い出した。徳川の代ももはや元治年代の末だ。社会は武装してかかっているような江戸の空気の中で、全く抵抗力のない町家の婦人なぞが何を精神の支柱とし、何を力として生きて行く
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