れなかったら、前年の総代が申し合わせたごとく、お定めの人馬二十五人二十五|疋《ひき》以外には継立《つぎた》てに応じまい、その余は翌日を待って継ぎ立てることにしたい。そのことに平助と半蔵とは申し合わせをしたのであった。


 時も時だ。西にはすでに大和《やまと》五条の乱があり、続いて生野銀山《いくのぎんざん》の乱があり、それがようやくしずまったかと思うと、今度は東の筑波山《つくばさん》の方に新しい時代の来るのを待ち切れないような第三の烽火《のろし》が揚がった。尊王攘夷《そんのうじょうい》を旗じるしにする一部の水戸の志士はひそかに長州と連絡を執り、四月以来反旗をひるがえしているが、まだその騒動もしずまらない時だ。
 両国をさして帰って行く平助を送りながら、半蔵は一緒に相生町《あいおいちょう》の家を出た。不自由な旅の身で、半蔵には郷里の方から届く手紙のことが気にかかっていた。十一屋まで平助と一緒に歩いて、そのことを隠居によく頼みたいつもりで出た。
「平助さん、筑波《つくば》が見えますよ。」
 半蔵は長い両国橋の上まで歩いて行った時に言った。
「あれが筑波ですかね。」
 と言ったぎり、平助も口をつぐんだ。水戸はどんなに騒いでいるだろうかとも、江戸詰めの諸藩の家中や徳川の家の子郎党なぞはどんな心持ちで筑波の方を望みながらこの橋を渡るだろうかとも、そんな話は出なかった。ただただ平助は昔風の庄屋気質《しょうやかたぎ》から、半蔵と共に旅の心配を分《わか》つのほかはなかった。
 その時、半蔵は向こうから橋を渡って帰って来る二人連れの女の子にもあった。その一人は相生町の家の娘だ。清元《きよもと》の師匠のもとからの帰りででもあると見えて、二人とも稽古本《けいこぼん》を小脇《こわき》にかかえながら橋を渡って来る。ちょうど半蔵が郷里の馬籠の家に残して置いて来たお粂《くめ》を思い出させるような年ごろの小娘たちだ。
「半蔵さん、相生町にはあんな子供があるんですか。」
 と平助が言っているところへ、一人の方の女の子が近づいて来て、半蔵にお辞儀をして通り過ぎた。後ろ姿もかわいらしい。男の子のように結った髪のかたちから、さっぱりとした浴衣《ゆかた》に幅の狭い更紗《さらさ》の帯をしめ、後ろにたれ下がった浅黄《あさぎ》の付け紐《ひも》を見せたところまで、ちょっと女の子とは見えない。小娘ではありながら男の子の服装だ。その異様な風俗がかえってなまめかしくもある。
「へえ、あれが女の子ですかい。わたしは男の子かとばかり思った。」と平助が笑う。
「でしょう。何かの願掛《がんが》けで、親たちがわざとあんな男の子の服装《なり》をさせてあるんだそうです。」
 そう答えながら、半蔵の目はなおも歩いて行く小娘たちの後ろ姿を追った。連れだって肩を並べて行く一人の方の女の子は、髪をお煙草盆《たばこぼん》というやつにして、渦巻《うずま》きの浴衣に紅《あか》い鹿《か》の子《こ》の帯を幅狭くしめたのも、親の好みをあらわしている。巾着《きんちゃく》もかわいらしい。
「都に育つ子供は違いますね。」
 それを半蔵が言って、平助と一緒に見送った。
 十一屋の隠居は店先にいた。格子戸《こうしど》のなかで、旅籠屋《はたごや》らしい掛け行燈《あんどん》を張り替えていた。頼む用事があって来た半蔵を見ると、それだけでは済まさせない。毎年五月二十八日には浅草川《あさくさがわ》の川開きの例だが、その年の花火には日ごろ出入りする屋敷方の御隠居をも若様をも迎えることができなかったと言って見せるのはこの隠居だ。遠くは水神《すいじん》、近くは首尾《しゅび》の松あたりを納涼の場所とし、両国を遊覧の起点とする江戸で、柳橋につないである多くの屋形船《やかたぶね》は今後どうなるだろうなどと言って見せるのもこの人だ。川一丸、関東丸、十一間丸などと名のある大船を水に浮かべ、舳先《へさき》に鎗《やり》を立てて壮《さか》んな船遊びをしたという武家全盛の時代を引き合いに出さないまでも、船屋形の両辺を障子で囲み、浅草川に暑さを避けに来る大名旗本の多かったころには、水に流れる提灯《ちょうちん》の影がさながら火の都鳥であったと言って見せるのもこの話し好きの人だ。
「半蔵さん、まあ話しておいでなさるさ。」
 と平助も二階へ上がらずにいて、半蔵と一緒にその店先でしばらく旅らしい時を送ろうとしていた。その時、隠居は思い出したように、
「青山さん、あれから宮川先生もどうなすったでしょう。浜の貿易にはあの先生もしっかりお儲《もう》けでございましたろうねえ。なんでも一|駄《だ》もあるほどの小判《こばん》を馬につけまして、宰領の衆も御一緒で、中津川へお帰りの時も手前どもから江戸をお立ちになりましたよ。」
 これには半蔵も答えられなかった。彼は忘れがたい旧師のことを一時の浮沈《うきしずみ》ぐらいで一口に言ってしまいたくなかった。ただあの旧師が近く中津川を去って、伊勢《いせ》の方に晩年を送ろうとしている人であることをうわさするにとどめていた。
「横浜貿易と言えば、あれにはずいぶん祟《たた》られた人がある。」と言うのは平助だ。「中津川あたりには太田の陣屋へ呼び出されて、尾州藩から閉門を仰せ付けられた商人もあるなんて、そんな話じゃありませんか。お灸《きゅう》だ。もうけ過ぎるからでさ。」
「万屋《よろずや》さんもどうなすったでしょう。」と隠居が言う。
「万屋さんですか。」と半蔵は受けて、「あの人はぐずぐずしてやしません。横浜の商売も生糸《きいと》の相場が下がると見ると、すぐに見切りをつけて、今度は京都の方へ目をつけています。今じゃ上方《かみがた》へどんどん生糸の荷を送っているでしょうよ。」
「どうも美濃《みの》の商人にあっちゃ、かなわない。中津川あたりにはなかなか勇敢な人がいますね。」と平助が言って見せる。
「宮川先生で思い出しました。」と隠居は言った。「手前が喜多村瑞見《きたむらずいけん》というかたのお供をして、一度神奈川の牡丹屋《ぼたんや》にお訪《たず》ねしたことがございました。青山さんは御存じないかもしれませんが、この喜多村先生がまた変わり物と来てる。元は幕府の奥詰《おくづめ》のお医者様ですが、開港当時の函館《はこだて》の方へ行って長いこと勤めていらっしゃるうちに、士分に取り立てられて、間もなく函館奉行の組頭でさ。今じゃ江戸へお帰りになって、昌平校《しょうへいこう》の頭取《とうどり》から御目付(監察)に出世なすった。外交|掛《がか》りを勤めておいでですが、あの調子で行きますと今に外国奉行でしょう。手前もこんな旅籠屋渡世《はたごやとせい》をして見ていますが、あんなに出世をなすったかたもめずらしゅうございます。」
「徳川幕府に人がないでもありませんかね。」
 この平助のトボケた調子に、隠居も笑い出した、外国貿易に、開港の結果に、それにつながる多くの人の浮沈《うきしずみ》に、聞いている半蔵には心にかかることばかりであった。
 その日から、半蔵は両国橋の往《い》き還《かえ》りに筑波山《つくばさん》を望むようになった。関東の平野の空がなんとなく戦塵《せんじん》におおわれて来たことは、それだけでも役人たちの心を奪い、お役所の事務を滞らせ、したがって自分らの江戸滞在を長引かせることを恐れた。時には九十六|間《けん》からある長い橋の上に立って、木造の欄干に倚《よ》りかかりながら丑寅《うしとら》の方角に青く光る遠い山を望んだ。どんな暑苦しい日でも、そこまで行くと風がある。目にある隅田川《すみだがわ》も彼には江戸の運命と切り離して考えられないようなものだった。どれほどの米穀を貯《たくわ》え、どれほどの御家人旗本を養うためにあるかと見えるような御蔵《おくら》の位置はもとより、両岸にある形勝の地のほとんど大部分も武家のお下屋敷で占められている。おそらく百本杭《ひゃっぽんぐい》は河水の氾濫《はんらん》からこの河岸《かし》や橋梁《きょうりょう》を防ぐ工事の一つであろうが、大川橋(今の吾妻橋《あずまばし》)の方からやって来る隅田川の水はあだかも二百何十年の歴史を語るかのように、その百本杭の側に最も急な水勢を見せながら、両国の橋の下へと渦《うず》巻き流れて来ていた。


 三人の庄屋が今度の江戸出府を機会に嘆願を持ち出したのは、理由のないことでもない。早い話が参覲交代制度の廃止は上から余儀なくされたばかりでなく、下からも余儀なくされたものである。たといその制度の復活が幕府の頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》する上からも、またこの深刻な不景気から江戸を救う上からも幕府の急務と考えられて来たにもせよ、繁文縟礼《はんぶんじょくれい》が旧のままであったら、そのために苦しむものは地方の人民であったからで。
 しかし、道中奉行の協議中、協議中で、庄屋側からの願いの筋も容易にはかどらなかった。半蔵らは江戸の町々に山王社《さんのうしゃ》の祭礼の来るころまで待ち、月を越えて将軍が天璋院《てんしょういん》や和宮様《かずのみやさま》と共に新たに土木の落成した江戸城西丸へ田安御殿《たやすごてん》の方から移るころまで待った。
 七月の二十日ごろまで待つうちに、さらに半蔵らの旅を困難にすることが起こった。
「長州様がいよいよ御謀反《ごむほん》だそうな。」
 そのうわさは人の口から口へと伝わって行くようになった。早乗りの駕籠《かご》は毎日|幾立《いくたて》となく町へ急いで来て、京都の方は大変だと知らせ、十九日の昼時に大筒《おおづつ》鉄砲から移った火で洛中《らくちゅう》の町家の大半は焼け失《う》せたとのうわさをすら伝えた。半蔵が十一屋まで行って幸兵衛や平助と一緒になり、さらに三人連れだって殺気のあふれた町々を浅草橋の見附《みつけ》から筋違《すじかい》の見附まで歩いて行って見たのは二十三日のことであったが、そこに人だかりのする高札場《こうさつば》にはすでに長州征伐のお触《ふ》れ書《しょ》が掲げられていた。
 七月二十九日はちょうど二百十日の前日にあたる。半蔵は他の二人《ふたり》の庄屋と共に、もっと京都の方の事実を確かめたいつもりで、東片町《ひがしかたまち》の屋敷に木曾福島の山村氏が家中衆を訪《たず》ねた。そこでは京都まで騒動聞き届け役なるものを仰せ付けられた人があって、その前夜にわかに屋敷を出立したという騒ぎだ。京都合戦の真相もほぼその屋敷へ行ってわかった。確かな書面が名古屋のお留守居からそこに届いていて、長州方の敗北となったこともわかった。
 その時になって見ると、長州征伐の命令が下ったばかりでなく、松平大膳太夫《まつだいらだいぜんのだゆう》ならびに長門守《ながとのかみ》は官位を剥《は》がれ、幕府より与えられた松平姓と将軍家|御諱《おんいみな》の一字をも召し上げられた。長防両国への物貨輸送は諸街道を通じてすでに堅く禁ぜられていた。
 ある朝、暁《あけ》の七つ時とも思われるころ。半蔵は本所相生町《ほんじょあいおいちょう》の家の二階に目をさまして、半鐘の音を枕《まくら》の上で聞いた。火事かと思って、彼は起き出した。まず二階の雨戸を繰って見ると、別に煙らしいものも目に映らない。そのうちに寝衣《ねまき》のままで下から梯子段《はしごだん》をのぼって来たのはその家の亭主《ていしゅ》多吉だ。
「火事はどこでございましょう。」
 という亭主と一緒に、半蔵はその二階から物干し場に登った。家々の屋根がそこから見渡される。付近に火の見のある家は、高い屋根の上に登って、町の空に火の手の揚がる方角を見さだめようとするものもある。
「青山さん、表が騒がしゅうございますよ。」
 と下から呼ぶ多吉がかみさんの声もする。半蔵と亭主はそれを聞きつけて、二階から降りて見た。
 多くの人は両国橋の方角をさして走った。半蔵らが橋の畔《たもと》まで急いで行って見た時は、本所方面からの鳶《とび》の者の群れが刺子《さしこ》の半天に猫頭巾《ねこずきん》で、手に手に鳶口《とびぐち》を携えながら甲高《かんだか》い叫び声を揚げて繰り出して来ていた。組の纏《まとい》
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