きびら》の羽織に漆紋《うるしもん》と言われるが、往昔《むかし》家康公《いえやすこう》が関ヶ原の合戦に用い、水戸の御隠居も生前好んで常用したというそんな武張《ぶば》った風俗がまた江戸に回《かえ》って来た。
 両国をさして帰って行く途中、平助は連れを顧みて、
「半蔵さん、君は時々立ち止まって、じっとながめているような人ですね。」
「御覧なさい、小さな宮本武蔵《みやもとむさし》や荒木又右衛門《あらきまたえもん》がいますよ。」
「ほんとに、江戸じゃ子供まで武者修行のまねだ。一般の人気がこうなって来たんでしょうかね。」
 そういう平助は実にゆっくりゆっくりと歩いた。
 その日は風の多い日で、半蔵らは柳原《やなぎわら》の土手にかかるまでに何度かひどい砂塵《すなぼこり》を浴びた。往《い》きには追い風であったから、まだよかったが、戻《もど》りには向い風になったからたまらない。土手の柳の間に古着《ふるぎ》古足袋《ふるたび》古股引《ふるももひき》の類《たぐい》を並べる露店から、客待ち顔な易者の店までが砂だらけだ。目もあけていられないようなやつが、また向こうからやって来る。そのたびに半蔵らは口をふさぎ、顔をそむけて、深い砂塵《すなぼこり》の通り過ぎるのを待った。乾燥しきった道路に舞い揚がる塵埃《ほこり》で、町の空までが濁った色に黄いろい。
 両国の旅籠屋《はたごや》に戻ってから、三人は二階で※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》をぬいだり、腰につけた印籠《いんろう》を床の間に預けたりして、互いにその日のことを語り合った。
「とにかく、きょうの模様を国の方へ報告して置くんですね。」
「早速福島の方へそう言ってやりましょう。」
「わたしも一つ馬籠《まごめ》へ手紙を出して、仕訳帳《しわけちょう》を至急取り寄せなけりゃならない。」
 多くの江戸の旅人宿と同じように、十一屋にも風呂場《ふろば》は設けてない。半蔵らは町の銭湯へ汗になったからだを洗いに行ったが、手ぬぐいを肩にかけて帰って来るころは、風も静まった。家々の表に打たれる水も都会の町中らしい時が来た。十一屋では夕飯も台所で出た。普通の場合、旅客は皆台所に集まって食った。
 食後に、半蔵らが二階にくつろいでいると、とかく同郷の客はなつかしいと言っている話し好きな十一屋の隠居がそこへ話し込みに来る。部屋《へや》の片すみに女中の置いて行った古風な行燈《あんどん》からして、堅気《かたぎ》な旅籠屋らしいところだ。
「なんと言っても[#「なんと言っても」は底本では「なんと言っも」]、江戸は江戸ですね。」と言い出すのは平助だ。「きょうは屋敷町の方で蚊帳《かや》売りの声を聞いて来ましたよ。」
「えゝ、蚊帳や蚊帳と、よい声で呼んでまいります。一町も先から呼んで来るのがわかります。あれは越後者《えちごもの》だそうですが、江戸名物の一つでございます。あの声を聞きますと、手前なぞは木曾から初めて江戸へ出てまいりました時分のことをよく思い出します。」と隠居が言う。
 幸兵衛も手さげのついた煙草盆《たばこぼん》を引き寄せて、一服吸い付けながらその話を引き取った。「十一屋さん、江戸もずいぶん不景気のようですね。」
「いや、あなた、不景気にも何にも。」と隠居は受けて、「お屋敷方があのとおりでしょう。きのうもあの建具屋の阿爺《おやじ》が見えまして、どこのお屋敷からも仕事が出ない、吾家《うち》の忰《せがれ》なぞは去年の暮れからまるきり遊びです、そう言いまして、こぼし抜いておりました。そんならお前の家の子息《むすこ》は何をしてるッて、手前が言いましたら、することがないから当時流行の剣術のけいこですとさ。だんだん聞いて見ますと、江戸にはちょいちょい火事があるんで、まあ息がつけます、仕事にありつけますなんて、そんなことを言っていましたっけ。ああいう職人にして見たら、それが正直なところかもしれませんね。」
「火事があるんで、息がつけるか。江戸は広い。」と平助はくすくすやる。
「いえ、串談《じょうだん》でなしに。火事は江戸の花――だれがあんなことを言い出したものですかさ。そのくせ、江戸の人くらい火事をこわがってるものもありませんがね。この節は夏でも火事があるんで、みんな用心しておりますよ。放火、放火――あのうわさはどうでしょう。苦しくなって来ると、それをやりかねないんです。ひどいやつになりますと、樋《とい》を逆さに伏せて、それを軒から軒へ渡して、わざわざ火を呼ぶと言いますよ。」
「全く、これじゃ公方様のお膝元《ひざもと》はひどい。」と幸兵衛は言った。「今度わたしも出て来て見て、そう思いました。この江戸を毎日見ていたら、参覲交代を元通りにしたいと考えるのも無理はないと思いますね。」
 幸兵衛と半蔵とはかなり庄屋気質《しょうやかたぎ》を異にしていた。不思議にも、旅は年齢の相違や立場を忘れさせる。半蔵は宿屋のかみさんが貸してくれた糊《のり》のこわい浴衣《ゆかた》の肌《はだ》ざわりにも旅の心を誘われながら、黙しがちにみんなの話に耳を傾けた。
「どうも、油断のならない世の中になりました。」と隠居は言葉をつづけて、「大店《おおだな》は大店で、仕入れも手控え、手控えのようです。おまけに昼は押し借り、夜は強盗の心配でございましょう。まあ、手前どもにはよくわかりませんが、お屋敷方の御隠居でも若様でも御簾中《ごれんちゅう》でも御帰国御勝手次第というような、そんな御改革はだれがしたなんて、慶喜公を恨んでいるものもございます。あの豚一様《ぶたいちさま》(豚肉を試食したという一橋公の異名)か、何も知らないものは諧謔《ふざけ》半分にそんなことを申しまして、とかく江戸では慶喜公の評判がよくございません……」
 江戸の話は尽きなかった。
 その晩、半蔵はおそくまでかかって、旅籠屋の行燈《あんどん》のかげで郷里の伏見屋伊之助あてに手紙を書いた。町々では夜燈なしに出歩くことを禁ぜられ、木戸木戸は堅く閉ざされた。警察もきびしくなって、その年の四月以来江戸市中に置かれたという邏卒《らそつ》が組の印《しる》しを腰につけながら屯所《たむろしょ》から回って来た。それすら十一屋の隠居のように町に居住するものから言わせれば、実に歯がゆいほどの巡回の仕方で。

       二

 江戸の旅籠屋《はたごや》は公事宿《くじやど》か商人宿のたぐいで、京坂地方のように銀三匁も四匁も宿泊料を取るようなぜいたくを尽くした家はほとんどない。公用商用のためこの都会に集まるものを泊めるのが旨としてあって、家には風呂場《ふろば》も設けず、膳部《ぜんぶ》も台所で出すくらいで、万事が実に質素だ。しかし半蔵が十年前に来て泊まって見たころとは宿賃からして違う。昼食抜きの二百五十文ぐらいでは泊めてくれない。
 道中奉行の意向がわかってから、間もなく半蔵は両国の十一屋を去ることにした。同行の二人《ふたり》の庄屋をそこに残して置いて、自分だけは本所相生町《ほんじょあいおいちょう》の方へ移った。同じ本所に住む平田同門の医者の世話で、その人の懇意にする家の二階に置いてもらうことをしきりに勧められたからで。
 半蔵が移って行った相生町の家は、十一屋からもそう遠くない。回向院《えこういん》から東にあたる位置で、一つ目の橋の近くだ。そこには親子三人暮らしの気の置けない家族が住む。亭主《ていしゅ》多吉《たきち》は深川《ふかがわ》の米問屋へ帳付けに通《かよ》っているような人で、付近には名のある相撲《すもう》の関取《せきとり》も住むような町中であった。早速《さっそく》平助は十一屋のあるところから両国橋を渡って、その家に半蔵を訪《たず》ねて来た。
「これはよい家が見つかりましたね。」
 平助は半蔵と一緒にその二階に上がってから言った。夏は二階の部屋《へや》も暑いとされているが、ここは思ったより風通しもよい。西に窓もある。しばらく二人はそんなことを語り合った。
「時に、半蔵さん。」と平助が言い出した。「どうもお役所の仕事は長い。去年木曾[#「木曾」は底本では「木曽」]から総代が出て来た時は、あれは四月の末でした。それが今年《ことし》の正月までかかりました。今度もわたしは長いと見た。」
「まったく、近ごろは道中奉行の交代も頻繁《ひんぱん》ですね。」と半蔵は答える。「せっかく地方の事情に通じた時分には一年か二年で罷《や》めさせられる。あれじゃお役所の仕事も手につかないわけですね。」
「そう言えば、半蔵さん、江戸にはえらい話がありますよ。わたしは山村様のお屋敷にいる人たちから、神奈川奉行の組頭《くみがしら》が捕《つか》まえられた話を聞いて来ましたよ。どうして、君、これは聞き捨てにならない。その人は神奈川奉行の組頭だと言うんですから、ずいぶん身分のある人でしょうね。親類が長州の方にあって、まあ手紙をやったと想《おも》ってごらんなさい。親類へやるくらいですから普通の手紙でしょうが、ふとそれが探偵《たんてい》の手にはいったそうです。まことに穏やかでない御時節がらで、お互いに心配だ、どうか明君賢相が出てなんとか始末をつけてもらいたい、そういうことが書いてあったそうです。それを幕府のお役人が見て、何、天下が騒々しい、これは公方様《くぼうさま》を蔑《ないがし》ろにしたものだ、公方様以外に明君が出てほしいと言うなら、いわゆる謀反人《むほんにん》だということになって、組頭はすぐにお城の中で捕縛されてしまった。どうも、大変な話じゃありませんか。それから組頭が捕《つか》まえられると同時に家捜《やさが》しをされて、当人はそのまま伝馬町《てんまちょう》に入牢《にゅうろう》さ。なんでもたわいない吟味のあったあとで、組頭は牢中で切腹を申し付けられたと言いますよ。東片町《ひがしかたまち》のお屋敷でその話が出て、皆驚いていましたっけ。組頭の検死に行った御小人目付《おこびとめつけ》を知ってる人もあのお屋敷にありましてね、検死には行ったがまことに気の毒だったと、あとで御小人目付がそう言ったそうです。あの話を聞いたら、なんだかわたしは江戸にいるのが恐ろしくなって来ました。こうして宿方の費用で滞在して、旅籠屋の飯を食ってるのも気が気じゃありません。」
 この平助の言うように、長い旅食《りょしょく》は半蔵にしても心苦しかった。しかし、道中奉行に差し出す諸帳簿の検閲を受け、問わるるままに地方の事情を上申するというだけでは済まされなかった。この江戸出府を機会に、もう一度|定助郷《じょうすけごう》設置の嘆願を持ち出し、かねての木曾十一宿の申し合わせを貫かないことには、平助にしてもまた半蔵にしても、このまま国へは帰って行かれなかった。
 前年、五人の総代が木曾から出て来た時、何ゆえに一行の嘆願が道中奉行の容《い》れるところとならなかったか。それは、よくよく村柄《むらがら》をお糺《ただ》しの上でなければ、容易に定助郷を仰せ付けがたいとの理由による。しかし、五人の総代からの嘆願も余儀なき事情に聞こえるからと言って、道中奉行は元治元年の二月から向こう六か月を限り、定助郷のかわりに当分助郷を許した。そして木曾下四宿への当分助郷としては伊奈《いな》百十九か村、中三宿へは伊奈九十九か村、上四宿へは筑摩郡《ちくまごおり》八十九か村と安曇郡《あずみごおり》百四十四か村を指定した。このうち遠村で正人馬《しょうじんば》を差し出しかね代永勤《だいえいづと》めの示談に及ぶとしても、一か年高百石につき金五両の割合より余分には触れ当てまいとの約束であった。過ぐる半年近くの半蔵らの経験によると、この新規な当分助郷の村数が驚くばかりに拡大されたことは、かえって以前からの勤め村に人馬の不参を多くするという結果を招いた。これはどうしても前年の総代が嘆願したように、やはり東海道の例にならって定助郷を設置するにかぎる。道中奉行に誠意があるなら、適当な村柄を糺《ただ》されたい、もっと助郷の制度を完備して街道の混乱を防がれたい。もしこの木曾十一宿の願いがいれら
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