における五条の代官鈴木源内らを攘夷の血祭りとした事実となってあらわれたのである。かねて公武合体の成功を断念し、政事総裁の職まで辞した越前藩主はこの形勢を黙ってみてはいなかった。同じ公武合体の熱心な主唱者の一人《ひとり》で、しばらく沈黙を守っていた人に薩摩《さつま》の島津久光もある。この人も本国の方でのイギリス艦隊との激戦に面目をほどこし、たとい敵の退却が風雨のためであるとしても勝敗はまず五分五分で、薩摩方でも船を沈められ砲台を破壊され海岸の町を焼かれるなどのことはあったにしても、すくなくもこの島国に住むものがそうたやすく征服される民族でないことをヨーロッパ人に感知せしめ、同時に他藩のなし得ないことをなしたという自信を得た矢先で、松平|春嶽《しゅんがく》らと共に再起の時機をとらえた。討幕派の勢力は京都から退いて、公武合体派がそれにかわった。大和行幸の議はくつがえされて、いまだ攘夷親征の機会でないとの勅諚《ちょくじょう》がそれにかわった。激しい焦躁《しょうそう》はひとまず政事の舞台から退いて、協調と忍耐とが入れかわりに進んだのである。
しかし、この京都の形勢を全く凪《なぎ》と見ることは早
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