度の改革もしきりに企てられ、諸街道の人民を苦しめた諸公役らの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、助郷《すけごう》の苦痛とする刎銭《はねせん》の割合も少なくなって、街道宿泊の方法までも簡易に改められた。手形なしには関所をも通れなかったほどの婦人が旅行の自由になったことは、この改革に忘れてならないことの一つだ。日ごろ深窓にのみこもり暮らした封建時代の婦人もその時すでに解放の第一歩を踏み出した。
 もともと慶喜は自ら進んで将軍職を拝した人でもない。家茂《いえもち》薨去《こうきょ》の後は、尾州公か紀州公こそしかるべしと言って、前将軍の後継者たることを肯《がえん》じなかった人である。周囲の懇望によりよんどころなく徳川の家督を相続しても、それは血統の事であるとして、容易に将軍職を受けようとは言わなかったのもこの人だ。所詮《しょせん》、徳川家も滅亡か、との松平春嶽《まつだいらしゅんがく》らの異見を待つまでもなく、天下公論の向かうところによっては少しの未練なく将軍職をなげ出そうとは、就職当時からの慶喜が公武一和の本領ででもあったのだ。
 この十五代ほど四方八方からの誤解
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