炉ばたから寛《くつろ》ぎの間《ま》の方へ行って見た。そこは半蔵が清助を相手に庄屋《しょうや》本陣の事務を見る部屋《へや》にあててある。
「万事は半蔵の量見一つでやるがいい――おれはもう一切、口を出すまいから。」
 これは吉左衛門が退役の当時に半蔵に残した言葉で、隠居してからもその心に変わりはなかった。今さら、彼は家のことに口を出すつもりは毛頭《もうとう》なかった。ただ、半蔵の仕事部屋を見回るだけに満足した。
 店座敷の方へも行って見た。以前の大火に枯れた老樹の跡へは、枝ぶりのおもしろい松の樹《き》が山から移し植えられ、白い大きな蕾《つぼみ》を持つ牡丹《ぼたん》がまた焼け跡から新しい芽を吹き出している。半蔵の好きなものだ。「松《まつ》が枝《え》」とは、その庭の植樹《うえき》から思いついて、半蔵が自分の歌稿の題としているくらいだ。しかしそれらの庭にあるものよりも、店座敷の床の間に積み重ねてある書物が吉左衛門の目についた。そこには本居《もとおり》派や平田派の古学に関したいろいろな本が置いてある。あの平田|篤胤《あつたね》と同郷で、その影響を受けたとも言われる佐藤信淵《さとうのぶひろ》が勧農に
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