かった。とうとう、尾州藩主は老中格の小笠原図書頭《おがさわらずしょのかみ》が意見をいれ、同じ留守役の水戸|慶篤《よしあつ》とも謀《はか》って、財政困難な幕府としては血の出るような十万ポンドの償金をイギリス政府に払ってしまった。五月の三日には藩主はこの事を報告するために江戸を出発し、京都までの道中二十日の予定で、板橋方面から木曾街道に上った。一行が木曾路の東ざかい桜沢に達すると、そこはもう藩主の領地の入り口である。時節がら、厳重な警戒で、護衛の武士、足軽《あしがる》、仲間《ちゅうげん》から小道具なぞの供の衆まで入れると二千人からの同勢がその領地を通って、かねて触れ書の回してある十三日には馬籠の宿はずれに着いた。
おりよく雨のあがった日であった。駅長としての半蔵は、父の時代と同じように、伊之助、九郎兵衛、小左衛門、五助などの宿役人を従え、いずれも定紋《じょうもん》付きの麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《あさがみしも》で、この一行を出迎えた。道路の入り口にはすでに盛り砂が用意され、竹籠《たけかご》に厚紙を張った消防用の水桶
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