せられてからは、『靖献遺言《せいけんいげん》』のような勤王を鼓吹する書物が大いに行なわれ、山地の方に住む領民にまで時事を献白する道も開かれているくらいだ。
もともとこんなに西海の方の空が暗くならない前に、二度目の長州征伐を開始するについては最初から尾州家では反対を唱えたのであった。先年御隠居(尾張慶勝《おわりよしかつ》)が征討総督として出馬したおりに、長州方でも御隠居の捌《さば》きに服し、京都包囲の巨魁《きょかい》たる益田《ますだ》、国司《こくし》、福原|三太夫《さんだゆう》の首級を差し出し、参謀|宍戸左馬助《ししどさまのすけ》以下を萩《はぎ》城に斬《き》り、毛利大膳《もうりだいぜん》父子も萩の菩提寺《ぼだいじ》天樹院に入って謹慎を表したのであるから、これ以上の追究はかえって長州人士を激せしめ、どんな禍乱の端緒となるまいものでもないと言い立てて、しきりに幕府の反省を促したのも尾州藩である。しかし幕府当局者はこの処置を寛大に過ぐるとし、御隠居の諫争《かんそう》にも耳を傾けず、長州の伏罪には疑惑の廉《かど》があるとして、毛利大膳父子、および三条実美《さんじょうさねとみ》以下の五卿を江戸に
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