とではもとよりない。とうとう、将軍は伏見から京都へと引き返し、二条城にはいって、慶喜をして種々代奏せしめた。その時、監察の向山栄五郎も、上疏の草稿が彼の手に成ったというかどで深く朝廷から憎まれたと見え、それとなく忌避の御沙汰があった。三日を出ないうちに、これも職を奪われ、家に禁錮《きんこ》を命ぜられた。
 これらの報知《しらせ》が江戸城へ伝えられた時の人々の驚きはなかったという。ことに天璋院《てんしょういん》、和宮様《かずのみやさま》をはじめ、大奥にある婦人たちの嘆きは一通りでなかったとか。中には慟哭《どうこく》して、井戸に身を投げようとしたものがあり、自害しようとするものさえあったという。
 慶応元年十月五日はこの国の歴史に記念すべき日である。一橋慶喜をはじめ、小笠原壱岐守《おがさわらいきのかみ》、松平越中守《まつだいらえっちゅうのかみ》、松平肥後守が連署して、外国条約の勅許を奏請したのも、その日である。その前夜には、この大きな問題について意見を求めるために、諸藩の藩士が御所に召された。三十六人のものがそのために十五藩から選ばれた。三人は薩摩から、三人は肥後から、三人は備前から、四人
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