先輩とも言うべき義髄になんと言っても水戸の旧《ふる》い影響の働いていることを想《おも》い見た。水戸の学問は要するに武家の学問だからである。武家の学問は多分に漢意《からごころ》のまじったものだからである。たとえば、水戸の人たちの中には実力をもって京都の実権を握り天子を挾《さしはさ》んで天下に号令するというを何か丈夫の本懐のように説くものもある。たといそれがやむにやまれぬ慨世《がいせい》のあまりに出た言葉だとしても、天子を挾《さしはさ》むというはすなわち武家の考えで、篤胤の弟子《でし》から見れば多分に漢意《からごころ》のまじったものであることは争えなかった。
武家中心の時はようやく過ぎ去りつつある。先輩義髄が西の志士らと共に画策するところのあったということも、もしそれが自分らの生活を根から新しくするようなものでなくて、徳川氏に代わるもの出《い》でよというにとどまるなら、日ごろ彼が本居平田諸大人から学んだ中世の否定とはかなり遠いものであった。その心から、彼は言いあらわしがたい憂いを誘われた。
水戸浪士に連れられて人足として西の方へ行った諏訪《すわ》の百姓も、ぽつぽつ木曾街道を帰って来
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