増しの令があったが、さらにその年三月から来たる辰年《たつどし》二月まで三か年間五割増しの達しが出た。実に十割の増加だ。諸大名の家族がその困難な旅を冒してまで、幕府の命令を遵奉《じゅんぽう》して、もう一度江戸への道を踏むか、どうかは、見ものであった。
この街道の空気の中で、半蔵は伊那行き以来懇意にする同門の先輩の一人を馬籠本陣に迎えた。暮田正香の紹介で知るようになった伊那小野村の倉沢|義髄《よしゆき》だ。その年の二月はじめに郷里を出た義髄は京大坂へかけて五十日ばかりの意味のある旅をして帰って来た。
義髄の上洛《じょうらく》はかねてうわさのあったことであり、この先輩の京都|土産《みやげ》にはかなりの望みをかけた同門の人たちも多かった。
義髄は、伊勢、大和《やまと》の方から泉州《せんしゅう》を経《へ》めぐり、そこに潜伏中の宮和田胤影《みやわだたねかげ》を訪《と》い、大坂にある岩崎|長世《ながよ》、および高山、河口《かわぐち》らの旧友と会見し、それから京都に出て、直ちに白河家《しらかわけ》に参候し神祇伯資訓《じんぎはくすけくに》卿に謁し祗役《しえき》の上申をしてその聴許を得、同家の地
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