に少なく、その多くは庄屋《しょうや》、本陣、問屋《といや》、医者、もしくは百姓、町人であった。先師篤胤その人がすでに医者の出であり、師の師なる本居宣長《もとおりのりなが》もまた医者であった。半蔵らの旧師宮川寛斎が中津川の医者であったことも偶然ではない。
その中にも、庄屋と本陣問屋とが、東美濃から伊那へかけての平田門人を代表すると見ていい。しかし、当時の庄屋問屋本陣なるものの位置がその籍を置く公私の領地に深き地方的な関係のあったことを忘れてはならない。たとえば、景蔵、香蔵の生まれた地方は尾州領である。その地方は一方は木曾川を隔てて苗木《なえぎ》領に続き、一方は丘陵の起伏する地勢を隔てて岩村領に続いている。尾州の家老|成瀬《なるせ》氏は犬山に、竹腰《たけごし》氏は今尾《いまお》に、石河《いしかわ》氏は駒塚《こまづか》に、その他|八神《やがみ》の毛利《もうり》氏、久々里《くくり》九人衆など、いずれも同じ美濃の国内に居所を置き、食邑《しょくゆう》をわかち与えられている。言って見れば、中津川の庄屋は村方の年貢米だけを木曾福島の山村氏(尾州代官)に納める義務はあるが、その他の関係においては御三家
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