ずっと引きこもりがちに暮らして来た彼だ。こんなに宿場の様子が案じられ、人のうわさも気にかかって、忰《せがれ》の留守に問屋場《といやば》の方まで見回ろうという心を起こしたのは、彼としてもめずらしいことであった。
 当時、将軍|家茂《いえもち》は京都の方へ行ったぎりいまだに還御《かんぎょ》のほども不明であると言い、十一隻からのイギリスの軍艦は横浜の港にがんばっていてなかなか退却する模様もないと言う。種々《さまざま》な流言も伝わって来るころだ。吉左衛門の足はまず孫たちのいる本陣の母屋《もや》の方へ向いた。


「やあ、例幣使《れいへいし》さま。」
 母屋の囲炉裏《いろり》ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って子供に戯れている。おまん(吉左衛門の妻)も裏二階の方から来て、お民(半蔵の妻)と一緒になっている。家族のあるものはすでに早い朝の食事をすまし、あるものはまだ膳《ぜん》に向かっている。そこへ吉左衛門がはいって行った。
「いゝえ、正己《まさみ》は例幣使さまじゃありません。」とおまんが三番目の孫に言って見せる。
「おとなしくして御飯《おまんま》を食べるものは、例幣使さまじゃないで。」とまた佐
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