|問屋《といや》の三役を退いてから、半年の余になる。前の年、文久《ぶんきゅう》二年の夏から秋へかけては、彼もまだ病床についていて、江戸から京都へ向けて木曾路《きそじ》を通過した長州侯《ちょうしゅうこう》をこの宿場に迎えることもできなかったころだ。おりからの悪病流行で、あの大名ですら途中の諏訪《すわ》に三日も逗留《とうりゅう》を余儀なくせられたくらいのころだ。江戸表から、大坂[#「大坂」は底本では「大阪」]、京都は言うに及ばず、日本国じゅうにあの悪性の痲疹《はしか》が流行して、全快しても種々な病に変わり、諸方に死人のできたこともおびただしい数に上った。世間一統、年を祭り替えるようなことは気休めと言えば、気休めだが、そんなことでもして悪病の神を送るよりほかに災難の除《よ》けようもないと聞いては、年寄役の伏見屋金兵衛《ふしみやきんべえ》なぞが第一黙っているはずもなく、この宿でも八月のさかりに門松を立て、一年のうちに二度も正月を迎えて、世直しということをやった。吉左衛門としては、あれが長い駅長生活の最後の時だった。同じ八月の二十九日には彼は金兵衛と共に退役を仰せ付けられる日を迎えた。それぎり、
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