戸の御隠居を師父と仰ぐ人たちが、従二位大納言《じゅにいだいなごん》の旗を押し立て、その遺志を奉じて動く意味のものであったことを忘れてはならない。九百余人から成る一団のうち、水戸の精鋭をあつめたと言わるる筑波組は三百余名で、他の六百余名は常陸《ひたち》下野《しもつけ》地方の百姓であった。中にはまた、京都方面から応援に来た志士もまじり、数名の婦人も加わっていた。二名の医者までいた。その堅い結び付きは、実際の戦闘力を有するものから、兵糧方《ひょうろうかた》、賄方《まかないかた》、雑兵《ぞうひょう》、歩人《ぶにん》等を入れると、千人以上の人を動かした。軍馬百五十頭、それにたくさんな小荷駄《こにだ》を従えた。陣太鼓と旗十三、四本を用意した。これはただの落ち武者の群れではない。その行動は尊攘の意志の表示である。さてこそ幕府方を狼狽《ろうばい》せしめたのである。
この浪士の中には、藤田小四郎《ふじたこしろう》もいた。亡き御隠居を動かして尊攘の説を主唱した藤田|東湖《とうこ》がこの世を去ってから、その子の小四郎が実行運動に参加するまでには十一年の月日がたった。衆に先んじて郷校の子弟を説き、先輩稲右衛
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