けれども、会津ほど正面の位置には立たなかった。ひたすら京都の守護をもって任ずる会津武士は敵として進んで来る長州勢を迎え撃ち、時には蛤御門を押し開き、筒先も恐れずに刀鎗を用いて接戦するほどの東北的な勇気をあらわしたという。
この市街戦はその日|未《ひつじ》の刻《こく》の終わりにわたった。長州方は中立売《なかだちうり》、蛤門、境町の三方面に破れ、およそ二百余の死体をのこしすてて敗走した。兵火の起こったのは巳《み》の刻《こく》のころであったが、おりから風はますます強く、火の子は八方に散り、東は高瀬川《たかせがわ》から西は堀川《ほりかわ》に及び、南は九条にまで及んで下京のほとんど全都は火災のうちにあった。年寄りをたすけ幼いものを負《おぶ》った男や女は景蔵の右にも左にもあって、目も当てられないありさまであったと認《したた》めてある。
しかし、景蔵の手紙はそれだけにとどまらない。その中には、真木和泉《まきいずみ》の死も報じてある。弘化《こうか》安政のころから早くも尊王攘夷の運動を起こして一代の風雲児と謳《うた》われた彼、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人
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