、この計画に荷担して幕府に反対し併《あわ》せて公武合体派を排斥しようとする有栖川宮《ありすがわのみや》をはじめ、正親町《おおぎまち》、日野、石山その他の公卿たちがあったことも見のがせない、と景蔵は言っている。烈風に乗じて火を内裏《だいり》に放ち、中川宮および松平容保の参内を途中に要撃し、その擾乱《じょうらん》にまぎれて鸞輿《らんよ》を叡山《えいざん》に奉ずる計画のあったことも知らねばならないと言ってある。流れ丸《だま》はしばしば飛んで宮中の内垣《うちがき》に及んだという。板輿《いたこし》をお庭にかつぎ入れて帝《みかど》の御動座を謀《はか》りまいらせるものがあったけれども、一橋慶喜はそれを制《おさ》えて動かなかったという。なんと言っても蛤御門の付近は最も激戦であった。この方面は会津、桑名《くわな》の護《まも》るところであったからで。皇居の西南には樟《くす》の大樹がある。築地《ついじ》を楯《たて》とし家を砦《とりで》とする戦闘はその樹《き》の周囲でことに激烈をきわめたという。その時になって長州は実にその正反対を会津に見いだしたのである。薩州勢なぞは別の方面にあって幕府方に多大な応援を与えた
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