兼ねて、福島の方へ立って行きましたよ。」
 半蔵の挨拶《あいさつ》だ。百姓総代ともいうべき組頭《くみがしら》庄助と、年寄役伊之助とは、こういう時に半蔵が力と頼む人たちだったのだ。
 やがてこの宿場では福島からの役人とその下役衆の出張を見た。野尻《のじり》、三留野《みどの》の宿役人までが付き添いで、関東御通行中の人馬備えにということであった。なにしろおびただしい混《こ》み合いで、伊那の助郷もそうそうは応援に出て来ない。継立《つぎた》ての行き届かないことは馬籠ばかりではなかった。美濃の大井宿、中津川宿とても同様で、やむなく福島から出張して来た役人には一時の止宿を願うよりほかに半蔵としてはよい方法も見当たらなかったくらいだ。ところが、この峠の上の小駅は家ごとに御用宿で、役人を休息させる場処もなかった。その一夜の泊まりは金兵衛の隠宅で引き受けた。
「お師匠さま。」
 と言って勝重《かつしげ》が半蔵のところへ飛んで来たのは、将軍家用の長持を送ってから六日もの荷造りの困難が続いたあとだった。福島の役人衆もずっと逗留《とうりゅう》していて、在郷の村々へ手分けをしては催促に出かけたが、伊那の人足は容易に動かなかった。江戸行きの家中が荷物という荷物は付き添いの人たち共にこの宿場に逗留していた時だ。ようやくその中の三分の一だけ継立てができたと知って、半蔵も息をついていた時だ。
「勝重《かつしげ》さんは復習でもしていますか。これじゃ本も読めないね。しばらくわたしも見てあげられなかった。こんな日も君、そう長くは続きますまい。」
「いえ、そこどこじゃありません。なんにもわたしはお手伝いができずにいるんです。そう言えば、お師匠さま――わたしは今、問屋場の前でおもしろいものを見て来ましたよ。いくら荷物を出せと言われても、出せない荷物は出せません、そう言って栄吉さんが旅の御衆に断わったと思ってごらんなさい。その人が袖《そで》を出して、しきりに何か催促するじゃありませんか。栄吉さんもしかたなしに、天保銭《てんぽうせん》を一枚その袂《たもと》の中に入れてやりましたよ。」
 勝重はおとなの醜い世界をのぞいて見たというふうに、自分の方ですこし顔をあからめて、それからさらに言葉をついで見せた。
「どうでしょう、その人は栄吉さんだけじゃ済ましませんよ。九郎兵衛さんのところへも押し掛けて行きました。あそこでもしかたがないから、また天保銭を一枚その袂の中へ入れてやりました。『よし、よし、これで勘弁してやる、』――そうあの旅の御衆が大威張《おおいば》りで言うじゃありませんか。これにはわたしも驚きましたよ。」


 当時の街道に脅迫と強請の行なわれて来たことについては実にいろいろな話がある。「実懇《じっこん》」という言葉なぞもそこから生まれてきた。この実懇になろうとは、心やすくなろうとの意味であって、その言葉を武士の客からかけられた旅館の亭主《ていしゅ》は、必ず御肴代《おさかなだい》の青銅とか御祝儀《ごしゅうぎ》の献上金とかをねだられるのが常であった。町人百姓はまだしも、街道の人足ですら駕籠《かご》をかついで行く途中で武士風の客から「実懇になろうか」とでも言葉をかけられた時は、必ず一|分《ぶ》とか、一分二百とかの金をねだられることを覚悟せねばならなかった。貧しい武家衆や公卿《くげ》衆の質《たち》の悪いものになると、江戸と京都の間を一往復して、すくなくも千両ぐらいの金を強請し、それによって二、三年は寝食いができると言われるような世の中になって来た。どうして問屋場のものを脅迫する武家衆が天保銭一枚ずつの話なぞは、この街道ではめずらしいことではなくなった。
 この脅迫と強請とがある。一方に賄賂《わいろ》の公然と行なわれていたのにも不思議はなかった。従来問屋場を通過する荷物の貫目にもお定めがあって、本馬《ほんま》一|駄《だ》二十貫目、軽尻《からじり》五貫目、駄荷《だに》四十貫目、人足一人持ち五貫目と規定され、ただし銭差《ぜにさし》、合羽《かっぱ》、提灯《ちょうちん》、笠袋《かさぶくろ》、下駄袋《げたぶくろ》の類《たぐい》は本馬一駄乗りにかぎり貫目外の小付《こづけ》とすることを許されていた。この貫目を盗む不正を取り締まるために、板橋、追分《おいわけ》、洗馬《せば》の三宿に設けられたのがいわゆる御貫目改め所であって、幕府の役人がそこに出張することもあり、問屋場のものの立ち合って改めたこともあった。そこは賄賂の力である程度までの出世もでき、御家人《ごけにん》の株を譲り受けることもできたほどの時だ。規定の貫目を越えた諸藩の荷物でもずんずん御貫目改め所を通過して、この馬籠の問屋場にまで送られて来た。
 将軍家|御召替《おめしか》えの乗り物、輿《こし》、それに多数の鉄砲、長持を最後にして、連日の大
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