は六月近い強雨の来る中でも隣家の伏見屋へ走って行って言った。
「伊之助さん、君の方で二日ばかりの分を立て替えてください。四十五両ばかりの雇い賃を払わなけりゃならない。」
半蔵も、伊之助も熱い汗を流しつづけた。公儀御書院番を送ったあとには、大坂|御番頭《ごばんがしら》の松平|兵部少輔《ひょうぶしょうゆう》と肥前平戸《ひぜんひらど》の藩主とを同日に迎えた。この宿場では、定助郷《じょうすけごう》設置の嘆願のために蓬莱屋《ほうらいや》新七を江戸に送ったばかりで、参覲交代制度の変革以来に起こって来た街道の混雑を整理する暇《いとま》もなかったくらいである。十|挺《ちょう》の鉄砲を行列の先に立て、四挺の剣付き鉄砲で前後を護《まも》られた大坂御番頭の一行が本陣の前で駕籠《かご》を休めて行くと聞いた時は、半蔵は大急ぎで会所から自分の部屋《へや》に帰った。麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《あさがみしも》をお民に出させて着た。そして父の駅長時代と同じような御番頭の駕籠に近く挨拶《あいさつ》に行った。彼は父と同じように軽く袴《はかま》の股立《ももだち》を取り、駕籠のわきにひざまずいて、声をかけた。
「当宿本陣の半蔵でございます。お目通りを願います。」
この挨拶を済ますころには、彼は一方に平戸藩主の一行を待ち受け、馬籠お泊まりという武家衆のために三十余人の客を万福寺にまで割り当てることを心配しなければならなかった。
六月の十日が来て、京都引き揚げの関東方を迎えるころには、この街道は一層混雑した。将軍|家茂《いえもち》はすでに、生麦償金授与の情実を聞き糺《ただ》して攘夷の功を奏すべきよしの御沙汰《ごさた》を拝し、お暇乞《いとまご》いの参内《さんだい》をも済まし、大坂から軍艦で江戸に向かったとうわさせらるるころだ。たださえ宿方《しゅくがた》では大根蒔《だいこんま》きがおそくなると言って一同目を回しているところへ、十頭ばかりの将軍の御召馬《おめしうま》が役人の付き添いで馬籠に着いた。この御召馬には一頭につき三人ずつの口取り別当が付いて来た。
「半蔵さん。」
と言って伊之助が半蔵の袖《そで》を引いたのは、ばらばら雨の来る暮れ合いのころであった。この宿でも一両二分の金をねだられた上で、御召馬の通行を見送ったあとであった。
「およそやかましいと言っても、こんなやかましい御通行にぶつかったのは初めてです。」
そう半蔵が言って見せると、伊之助は声を潜めて、
「半蔵さん、脇本陣《わきほんじん》の桝田屋《ますだや》へ来て休んで行った別当はなんと言ったと思います。御召馬とはなんだ。そういうことを言うんですよ。桝田屋の小左衛門さんもそれには震えてしまって、公方様《くぼうさま》の御召馬で悪ければ、そんならなんと申し上げればよいのですかと伺いを立てたそうです。その時の別当の言い草がいい――御召御馬《おめしおうま》と言え、それからこの御召御馬は焼酎《しょうちゅう》を一升飲むから、そう心得ろですとさ。」
半蔵と伊之助とは互いに顔を見合わせた。
「半蔵さん、それだけで済むならまだいい。どうしてあの別当は機嫌《きげん》を悪くしていて、小左衛門さんの方で返事をぐずぐずしたら、いきなりその御召御馬を土足のまま桝田屋の床の間に引き揚げたそうですよ。えらい話じゃありませんか。実に、踏んだり蹴《け》ったりです。」
「京都の敵《かたき》をこの宿場へ来て打たれちゃ、たまりませんね。」と言って半蔵は嘆息した。
京都から引き揚げる将軍家用の長持が五十|棹《さお》も木曾街道を下って来るころは、この宿場では一層荷送りの困難におちいった。六月十日に着いた将軍の御召馬は、言わば西から続々殺到して来る関東方の先触《さきぶ》れに過ぎなかった。半蔵は栄吉と相談し、年寄役とも相談の上で、おりから江戸屋敷へ帰東の途にある仙台の家老(片倉小十郎《かたくらこじゅうろう》)が荷物なぞは一時留め置くことに願い、三棹の長持と五|駄《だ》の馬荷とを宿方に預かった。
隠退後の吉左衛門が沈黙に引き換え、伊之助の養父金兵衛は上の伏見屋の隠宅にばかり引き込んでいなかった。持って生まれた世話好きな性分《しょうぶん》から、金兵衛はこの混雑を見ていられないというふうで、肩をゆすりながら上の伏見屋から出て来た。
「どうも若い者は覚えが悪い。」と金兵衛は会所の前まで杖《つえ》をひいて来て、半蔵や伊之助をつかまえて言った。「福島のお役所というものもある。お役人衆の出張を願った例は、これまでにだっていくらもあることですよ。こういう時のお役所じゃありませんかね。」
「金兵衛さん、その事なら笹屋《ささや》の庄助さんが出かけましたよ。あの人は作食米《さくじきまい》の拝借の用を
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