輸送のために開始された場処であることがわかる。これはまた時代が変遷して来ても、街道を通過する公用の荷物、諸藩の送り荷などを継ぎ送るだけにも、かなりの注意を払わねばならない。諸大名諸公役が通行のおりの荷物の継立《つぎた》ては言うまでもなく、宿人馬、助郷《すけごう》人馬、何宿の戻《もど》り馬、在馬《ざいうま》の稼《かせ》ぎ馬などの数から、商人荷物の馬の数まで、日々の問屋場帳簿に記入しなければならない。のみならず、毎年あるいは二、三年ごとに、人馬徴発の総高を計算して、それを人馬立辻《じんばたてつじ》ととなえて、道中奉行《どうちゅうぶぎょう》の検閲を経なければならない。諸街道にある他の問屋のことは知らず、同じ馬籠の九太夫の家もさておき、半蔵の家のように父祖伝来の勤めとしてこの仕事に携わるとなると、これがまた公共の心なしに勤まる家業でもないのだ。
見て来ると、地方自治の一単位として村方の世話をする役を除いたら、それ以外の彼の勤めというものは、主として武家の奉公である。一庄屋としてこの政治に安んじられないものがあればこそ、民間の隠れたところにあっても、せめて勤王の味方に立とうと志している彼だ。周囲を見回すごとに、他の本陣問屋に伍《ご》して行くことすら彼には心苦しく思われて来た。
奥の部屋《へや》の方からは、漢籍でも読むらしい勝重《かつしげ》の声が聞こえて来ていた。ときどき子供らの笑い声も起こった。
「どうもよく降ります。」
会所の小使いが雨傘《あまがさ》をつぼめてはいって来た。
その声に半蔵は沈思を破られて、小使いの用事を聞きに立って行った。近く大坂御番衆の通行があるので、この宿場でも人馬の備えを心がけて置く必要があった。宿役人一同の寄り合いのことで小使いはその打ち合わせに来たのだ。
街道には、毛付《けづ》け(木曾福島に立つ馬市)から帰って来る百姓、木曾駒《きそごま》をひき連れた博労《ばくろう》なぞが笠《かさ》と合羽《かっぱ》で、本陣の門前を通り過ぎつつある。半蔵はこの長雨にぬれて来た仙台《せんだい》の家中を最近に自分の家に泊めて見て、本陣としても問屋としても絶えず心を配っていなければならない京大坂と江戸の関係を考えて見ていた時だ。その月の十二日とかに江戸をたって来たという仙台の家中は、すこしばかりの茶と焼酎《しょうちゅう》を半蔵の家から差し出した旅の親しみよりか、雨中のつれづれに将軍留守中の江戸話を置いて行った。当時外交主任として知られた老中格の小笠原図書頭《おがさわらずしょのかみ》は近く千五、六百人の兵をひき連れ、大坂上陸の目的で横浜を出帆するとの風評がもっぱら江戸で行なわれていたという。これはいずれ生麦《なまむぎ》償金授与の事情を朝廷に弁疏《べんそ》するためであろうという。この仙台の家中の話で、半蔵は将軍|還御《かんぎょ》の日ももはやそんなに遠くないことを感知した。近く彼が待ち受けている大坂御番衆の江戸行きとても、いずれこの時局に無関係な旅ではなかろうと想像された。同時に、京都引き揚げの関東方の混雑が、なんらかの形で、この街道にまであらわれて来ることをも想像せずにはいられなかった。
その時になって見ると、重大な任務を帯びて西へと上って行った尾州藩主のその後の消息は明らかでない。あの一行が中津川泊まりで馬籠を通過して行ってから、九日にもなる。予定の日取りにすれば、ちょうど京都にはいっていていいころである。藩主が名古屋に無事到着したまでのことはわかっていたが、それから先になると飛脚の持って来る話もごくあいまいで、今度の上京は見合わせになるかもしれないような消息しか伝わって来なかった。生麦償金はすでに払われたというにもかかわらず、宣戦の布告にもひとしいその月十日の攘夷期限が撤回されたわけでも延期されたわけでもない。こういう中で、将軍を京都から救い出すために一大示威運動を起こすらしい攘夷反対の小笠原図書頭のような人がある。漠然《ばくぜん》とした名古屋からの便《たよ》りは半蔵をも、この街道で彼と共に働いている年寄役伊之助をも不安にした。
四
もはや、西の下《しも》の関《せき》の方では、攘夷を意味するアメリカ商船の砲撃が長州藩によって開始されたとのうわさも伝わって[#「伝わって」は底本では「伝わつて」]来るようになった。
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小倉藩《こくらはん》より御届け
口上覚《こうじょうおぼ》え
「当月十日、異国船一|艘《そう》、上筋《かみすじ》より乗り下し、豊前国《ぶぜんのくに》田野浦|部崎《へさき》の方に寄り沖合いへ碇泊《ていはく》いたし候《そうろう》。こなたより船差し出《いだ》し相尋ね候ところアメリカ船にて、江戸表より長崎へ通船のところ天気|悪《あ》しきため、碇泊いたし、明朝出帆のつ
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