老中|阿部《あべ》が退職の後はだれが外交の担任であるやも知らなかったくらいだ。
 十月六日のこと。駿河は心配のあまり、監察の赤松左京《あかまつさきょう》とも相談の上で、京都へ行って様子をさぐろうとした。
 暁に発《た》って淀川《よどがわ》をさかのぼり、淀の駅まで行った。そこいらの茶店ではまだ戸が閉《し》まっている。それをたたき起こして、酒をもとめ、粥《かゆ》を炊《た》かせなぞして、しばらくそこにからだを温《あたた》めていると、騎馬で急いで来る別手組《べつてぐみ》のものにあった。京都からの使者として、松浦という目付役が勅諚《ちょくじょう》を持参したのだ。その時、はじめて駿河は外国条約の勅許が出たことを知り、前の夜に禁中では大評定のあったことをも知った。多くの公卿《くげ》たちの中には今だに鎖港攘夷《さこうじょうい》を主張するものもあったが、ようやくのことで意見の一致を見たとの話も出た。なお、詳細のことは老中松平|伯耆《ほうき》から外国公使へ談判に及べとの話も出た。その勅書には条約は確かにお許しになったから適当の処置をするがいいとはあっても、これまでの条約面には不都合なかどもあるから、新たに取り調べて、諸藩衆議の上でお取りきめに相成るべき事との御沙汰である。「兵庫港の儀は止められ候《そうろう》事」ともある。駿河は驚いて、使者の松浦を見た。この勅書には外国公使は決して満足しまい、必ず推して京都に上り彼らの目的を貫かずには置くまい、もしそんな場合にでも立ちいたったら、談判はさておき、殺気立った会津藩士らが何をしでかさないとも限らない、のみならず応接の主任が松平伯耆ではこの事のまとまる見込みがない、もっと外交の事務に通じた人物がありながらこんな取り計らいはいかにも心得がたい、それを駿河が言い出すと、相手の松浦は迷惑がって、自分はただ使いに来たものである、君の議論を聞きに来たものではないと。これには駿河も笑い出した。早速これから大坂へ引き返そう、時間があらば兵庫まで行って見よう、なお、決答の期日を延ばすことはできないまでもなんとか尽力しよう、なるべくはこの談判主任として小笠原壱岐《おがさわらいき》をわずらわしたい、その約束で松浦に別れた。彼はその足で大坂へ帰るために、別手組の馬をも借りることにした。
 その日の午後には、駿河は監察赤松左京を伴い天保山沖に碇泊《ていはく》する順動丸に乗り移った。兵庫行きを急ぐ彼は船長を催促して、さかんに石炭を焚《た》かせた。その時、川口の方面から船印《ふなじるし》の旗を立てて進んで来る一|艘《そう》の川船が彼の目に映った。彼はその船の赤い色で長官を乗せて来たことを知った。近づいて見ると、彼が心待ちにした小笠原壱岐ではなくて、松平伯耆であった。この人は温厚淡泊な君子ではあるが、外国応接の事件を担当すべき人柄でない。これは、と思っている彼の方へその赤い川船はこぎ寄せて来た。間もなく松平伯耆は順動丸に乗り移った。その時の老中の言葉に、京都からの急命で各国公使へ勅諚の趣を達しにやって来た、万事はよろしく君らの方で談判ありたいとのきわめてあっさりとした挨拶《あいさつ》だ。なんら苦慮の様子もないには、駿河も左京と顔を見合わせた。
 そこへ大きな外国船だ。やがて一人《ひとり》の西洋人を乗せたボオトが親船からこぎ離れて、波に揺られながらこちらを望んで近づいて来た。英国書記官アレキサンドル・シイボルトが兵庫からの使者として催促にやって来たのだ。シイボルトは約束の期日の来たことを告げ、日本執政の来るのを待ちあぐんだことを告げ、各国の船艦は蒸汽を焚《た》いてここに来る準備をしているところだと告げた。順動丸が兵庫に近づくと、そこにはまた仏国書記官メルメット・カションが日本執政の来港を待ちわびていた。
 談判はまず英船内で開始された。初対面のこととて、駿河が姓名職掌を紹介すると、英国公使パアクスは不審を打って松平老中に言った。
「本日は約束の期日であるのに、阿部豊後《あべぶんご》はどうして見えないのか。」
「阿部豊後でござるか。先日職を罷《や》められたによって。」
「小笠原壱岐はどうしたか。」
「これは病気でござるで。」
「松平|周防《すおう》は。」
「はて、松平周防は機務に多忙で、なかなかこの席へはお越しになれない。」
 それを聞くと、公使は冷笑して、結局の談判に旧識の人たちは皆来ない、初対面の貴下が来臨あるとははなはだその意を得ないと言い出す。松平伯耆はそんなことに頓着《とんちゃく》なしで、右手に勅書をささげて、公使の前でそれを読み上げた。その時、書記官シイボルトがそばにいて、勅書の字句を駿河に質問し、それを一々公使に通じた。パアクスはたちまち顔色を火のように変え、拳《こぶし》を揚げて卓をたたくやら、椅子《いす》を離れて大股《おお
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