事はできない、幸いここに革細工をするやつがいるからそれにさせろと言われるのと少しも変わったことはない、それに遠慮会釈も糸瓜《へちま》も要《い》るものか、さっさと打《ぶ》ちこわしてやれ、ただしおれたちは自分でその先棒になろうとは思わない――どうでしょう、君、これが相当に見識のある洋学者の言い草ですよ。どうしたって幕府は早晩倒さなけりゃならない、ただ、さしあたり倒す人間がないからしかたなしに見ているんだ、そういうことも言うんです。こんな無責任なことを言わせる今の洋学は考えて見たばかりでも心細い。自分さえよければ人はどうでもいい、百姓や町人はどうなってもいい、そんな学問のどこに熱烈|峻厳《しゅんげん》な革新の気魄《きはく》が求められましょうか――」
 後進の半蔵らを前に置いて、多感で正直なこの先輩は色のあせた着物の襟《えり》をかき合わせた。あだかも、つくづく身の落魄《らくはく》を感ずるというふうに。


「半蔵さん、ともかくもわたしと一緒に伴野までおいでください。君や香蔵さんをお誘いするようにッて、松尾の子息《むすこ》がくれぐれも言い置いて行きました。あの人は暮田正香と一緒に、けさ一歩《ひとあし》先へ立って行きました。」
「そんなに多勢で押し掛けてもかまいますまいか。」
「なあに、三人や四人押し掛けて行ったって迷惑するような家じゃありませんよ。」
「わたしもせっかく飯田まで来たものですから、ついでに山吹社中の輪講に出席して見たい。あの社中の篤胤研究をききたいと思いますよ。こんなよい機会はちょっとありませんからね。」
「そんなら、こうなさるさ。伴野から山吹へお回りなさるさ。」
 翌日の朝、景蔵と半蔵とはこの言葉をかわした。
 こんなふうで友だちに誘われて行った伴野村での一日は半蔵にとって忘れがたいほどであった。彼は松尾の家で付近の平田門人を歴訪する手引きを得、日ごろ好む和歌の道をもって男女の未知の友と交遊するいとぐちをも見つけた。当時|洛外《らくがい》に侘住居《わびずまい》する岩倉公《いわくらこう》の知遇を得て朝に晩に岩倉家に出入りするという松尾多勢子から、その子の誠にあてた京都|便《だよ》りも、半蔵にはめずらしかった。
 伊那の谷の空にはまた雪のちらつく日に、半蔵は中津川の方へ帰って行く景蔵や香蔵と手を分かった。その日まで供の佐吉を引き留めて置いたのも、二人の友だちを送らせる下心があったからで。伊那には彼ひとり残った。それからの彼は、山吹での篤胤研究会とも言うべき『義雄集』への聴講に心をひかれたのと、あちこちと訪《たず》ねて見たい同門の人たちのあったのと、一晩のうちに四尺も深い雪が来たという大平峠の通行の困難なのとで、とうとう飯田に年を越してしまった。
 この小さな旅は、しかし平田門人としての半蔵の目をいくらかでも開けることに役立った。
「あはれあはれ上《かみ》つ代《よ》は人の心ひたぶるに直《なお》くぞありける。」
 先人の言うこの上つ代とは何か。その時になって見ると、この上つ代はこれまで彼がかりそめに考えていたようなものではなかった。世にいわゆる古代ではもとよりなかった。言って見れば、それこそ本居平田諸大人が発見した上つ代である。中世以来の武家時代に生まれ、どの道かの道という異国の沙汰《さた》にほだされ、仁義礼譲孝|悌《てい》忠信などとやかましい名をくさぐさ作り設けてきびしく人間を縛りつけてしまった封建社会の空気の中に立ちながらも、本居平田諸大人のみがこの暗い世界に探り得たものこそ、その上つ代である。国学者としての大きな諸先輩が創造の偉業は、古《いにしえ》ながらの古に帰れと教えたところにあるのではなくて、新しき古を発見したところにある。
 そこまでたどって行って見ると、半蔵は新しき古を人智のますます進み行く「近《ちか》つ代《よ》」に結びつけて考えることもできた。この新しき古は、中世のような権力万能の殻《から》を脱ぎ捨てることによってのみ得らるる。この世に王と民としかなかったような上つ代に帰って行って、もう一度あの出発点から出直すことによってのみ得らるる。この彼がたどり着いた解釈のしかたによれば、古代に帰ることはすなわち自然《おのずから》に帰ることであり、自然《おのずから》に帰ることはすなわち新しき古《いにしえ》を発見することである。中世は捨てねばならぬ。近つ代は迎えねばならぬ。どうかして現代の生活を根からくつがえして、全く新規なものを始めたい。そう彼が考えるようになったのもこの伊那の小さな旅であった。そして、もう一度彼が大平峠を越して帰って行こうとするころには、気の早い一部の同門の人たちが本地垂跡《ほんじすいじゃく》の説や金胎《こんたい》両部の打破を叫び、すでにすでに祖先葬祭の改革に着手するのを見た。全く神仏を混淆《こんこう》して
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