けて旧師のうわさが出た。
 旅籠屋に帰ってから、半蔵らは珍客を取り囲《ま》いて一緒にその日の夕方を送った。正香というものが一枚加わると、三人は膝《ひざ》を乗り出して、あとからあとからといろいろな話を引き出される。あつらえたちょうしが来て、盃《さかずき》のやり取りが始まるころになると、正香がまずあぐらにやった。
「どれ、無礼講とやりますか。そう、そう、あの馬籠の本陣の方で、わたしは一晩土蔵の中に御厄介になった。あの時、青山君が瓢箪《ふくべ》に酒を入れて持って来てくだすった。あんなうまい酒は、あとにも先にもわたしは飲んだことがありませんよ。」
「まあ、そう言わずに、飯田の酒も味わって見てください。」と半蔵が言う。
「暮田さんの前ですが、いったい、今の洋学者は何をしているんでしょう。」と言い出したのは香蔵だ。
「また香蔵さんがきまりを始めた。」と景蔵は笑いながら、「君は出し抜けに何か言い出して、ときどきびっくりさせる人だ。しょッちゅう一つ事を考えてるせいじゃありませんかね。」
「でも、わたしは黒船というものを考えないわけにいきません。」とまた香蔵が言った。
 なんの事はない。この二人《ふたり》の年上の友だちがそこへ言い出したことは、やがて半蔵自身の内部の光景でもある。彼としても「一つ事を考えている」と言わるる香蔵を笑えなかった。
「そりゃ、君、ことしの夏京都へ行って斬《き》られた佐久間象山だって、一面は洋学者さ。」と正香は言った。「あの人は木曾路を通って京都の方へ行ったんでしょう。青山君の家へも休むか泊まるかして行ったんじゃありませんか。」
「いえ、ちょうどわたしは留守の時でした。」と半蔵は答える。「あれは三月の山桜がようやくほころびる時分でした。わたしは福島の出張先から帰って、そのことを知りました。」
「蜂谷《はちや》君は。」
「わたしは景蔵さんと一緒に京都の方にいた時です。象山も陪臣ではあるが、それが幕府に召されたという評判で、十五、六人の従者をつれて、秘蔵の愛馬に西洋|鞍《ぐら》か何かで松代《まつしろ》から乗り込んで来た時は、京都人は目をそばだてたものでした。」
「でしょう。象山のことですから、おれが出たらと思って、意気込んで行ったものでしょうかね。でも、あの人は吉田松陰《よしだしょういん》の事件で、九年も禁錮《きんこ》の身だったというじゃありませんか。戸を出《い》でずして天下を知るですか。どんな博識多才の名士だって、君、九年も戸を出なかったら、京都の事情にも暗くなりますね。あのとおり、上洛《じょうらく》して三月もたつかたたないうちに、ばっさり殺《や》られてしまいましたよ。いや、はや、京都は恐ろしいところです。わたしが知ってるだけでも、何度形勢が激変したかわかりません。」
「それにはこういう事情もあります。」と景蔵は正香の話を引き取って、「象山が斬られたのは、あれは池田屋事件の前あたりでしたろう。ねえ、香蔵さん、たしかそうでしたね。」
「そう、そう、みんな気が立ってる最中でしたよ。」
「あれは長州の大兵が京都を包囲する前で、叡山《えいざん》に御輿《みこし》を奉ずる計画なぞのあった時だと思います。そこへ象山が松代藩から六百石の格式でやって来て、山階宮《やましなのみや》に伺候したり慶喜公《よしのぶこう》に会ったりして、彦根《ひこね》への御動座を謀《はか》るといううわさが立ったものですからね。これは邪魔になると一派の志士からにらまれたものらしい。」
「まあ、あれほどの名士でしたら、もっと光を包んでいてもらいたかったと思いますね。」とまた正香が言った。「どうも今の洋学者に共通なところは、とかくこのおれを見てくれと言ったようなところがある。あいつは困る。でも、象山のような人になると、『東洋は道徳、西洋は芸術(技術の意)』というくらいの見きわめがありますよ。あの人には、かなり東洋もあったようです。そりゃ、象山のような洋学者ばかりなら頼もしいと思いますがね、洋学一点張りの人たちと来たら、はたから見ても実に心細い。見たまえ、こんな徳川のような圧制政府は倒してしまえなんて、そういうことを平気で口にしているのも今の洋学者ですぜ。そんなら陰で言う言葉がどんな人たちの口から出て来るのかと思うと、外国関係の翻訳なぞに雇われて、食っているものも着ているものも幕府の物ばかりだという御用学者だから心細い。それに衣食していながら、徳川をつぶすというのはどういう理屈かと突ッ込むものがあると、なあに、それはかまわない、自分らが幕府の御用をするというのは何も人物がえらいと言って用いられているのじゃない、これは横文字を知ってるというに過ぎない、たとえば革細工《かわざいく》だから雪駄直《せったなお》しにさせると同じ事だ、洋学者は雪駄直しみたようなものだ、殿様方はきたない
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