座敷へ飛んでやって来た。よくある街道でのけんかかと思って、半蔵は「袴《はかま》、袴。」と妻に言った。急いでその平袴《ひらばかま》をはいて、紐《ひも》も手ばしこく、堅く結んだ。
「冗談じゃないぞ。」
そう言いながら半蔵は本陣の表まで出て見た。問屋場の前の荷物の積み重ねてあるところは、何様《なにさま》かの家来らしい旅の客が栄吉をつかまえて、何か威《おど》し文句を並べている。半蔵はすぐにその意味を読んだ。彼はその方へ走って行って、木刀を手にした客の前に立った。客の吹く酒の臭気はぷんと彼の鼻をついた。
客は栄吉の方を尻目《しりめ》にかけて、
「やい。人足の出し方がおそいぞ。」
とにらんだ。その時、客はいまいましそうに、なおも手にした木刀で栄吉の方へ打ちかかろうとするので、半蔵は身をもって従兄弟《いとこ》をかばおうとした。
「当宿問屋の主人《あるじ》は自分です。不都合なことがありましたら、わたしが打たれましょう。」
と半蔵はそこへ自分を投げ出すように言った。
この騒ぎを聞きつけた清助は本陣の裏の方から、九郎兵衛は石垣《いしがき》の上にある住居《すまい》の方から坂になった道を走って来た。かつて問屋場の台の上から無法な侍を突き落としたほどの九郎兵衛がそこへ来て割り込むと、その力の人並みすぐれた大きな体格を見ただけでも、客はいつのまにか木刀を引き込ました。
「半蔵さん、御本陣にはお客があるんでしょう。ここはわたしにお任せなさい。そうなさい。」
この九郎兵衛の声を聞いて、半蔵は母屋《もや》の方へ引き返して行ったが、客から吹きかけられた酒の臭気の感じは容易に彼から離れなかった。しばらく彼は門内の庭の一隅《いちぐう》にある椿《つばき》の若木のそばに立ちつくした。
その足で半蔵は店座敷の方へ引き返して行って見た。自分の机の上に置いた本なぞをあけて見ている寿平次をそこに見いだした。
「半蔵さん、何かあったんですか。」
「なに、なんでもないんですよ。」
「だれか問屋場であばれでもしたんですか。」
「いえ、人足の出し方がおそいと言うんでしょう。聞き分けのない武家衆と来たら、問屋泣かせです。」
「この節はなんでも力ずくで行こうとする。力で勝とうとするような世の中になって来た。」
「寿平次さん、吾家《うち》にいる勝重さんが何を言い出すかと思ったら、徳川の代も末になりましたね、ですと
前へ
次へ
全217ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング