、このままにうッちゃらかして置いてごらんなさい。」
「そう言えば、そうですね。古いことは知りませんが、和宮様《かずのみやさま》の御通行の時がまず一期、参覲交代の廃止がまた一期で、助郷も次第に変わって来ましたね。」


 ともかくも江戸に出ている十一宿総代が嘆願の結果を待つことにして、得右衛門は寿平次より先に妻籠《つまご》の方へ帰って行った。
「きょうは吉左衛門さんにお目にかかれて、わたしもうれしい。妻籠でも収穫《とりいれ》が済んで、みんな、一息ついてるところですよ。」
 との言葉をお民のところへ残して行った。
 半蔵は得右衛門を送り出して置いて、母屋《もや》の店座敷に席をつくった。そこに裏二階から降りて来る寿平次を待った。
「寿平次さんも話し込んでいると見えるナ。お父《とっ》さんにつかまったら、なかなか放さないよ。」
 と半蔵がお民に言うころは、姉娘のお粂《くめ》が弟の正己《まさみ》を連れて、裏の稲荷《いなり》の方の栗《くり》拾いから戻《もど》って来た。正己はまだごく幼くて、妻籠本陣の方へ養子にもらわれて行くことも知らずにいる。
「やい、やい。妻籠の子になるのかい。」
 と宗太もそこへ飛んで来て弟に戯れた。
「宗太、お前は兄さんのくせに、そんなことを言うんじゃないよ。」とお民はたしなめるように言って見せた。「妻籠はお前お母《っか》さんの生まれたお家じゃありませんか。」
 半蔵夫婦の見ている前では、兄弟《きょうだい》の子供の取っ組み合いが始まった。兄の前髪を弟がつかんだ。正己はようやく人の言葉を覚える年ごろであるが、なかなかの利《き》かない気で、ちょっとした子供らしい戯れにも兄には負けていなかった。
「今夜は、妻籠の兄さんのお相伴《しょうばん》に、正己にも新蕎麦《しんそば》のごちそうをしてやりましょう。それに、お母《っか》さんの言うには、何かこの子につけてあげなけりゃなりますまいッて。」
「妻籠の方への御祝儀《ごしゅうぎ》にかい。扇子《せんす》に鰹節《かつおぶし》ぐらいでよかないか。」
 夫婦はこんな言葉をかわしながら、無心に笑い騒ぐ子供らをながめた。お民は妻籠からの話を拒もうとはしなかったが、さすがに幼いものを手放しかねるという様子をしていた。
「お師匠さま、来てください。」
 表玄関の方で、けたたましい呼び声が起こった。勝重《かつしげ》は顔色を変えて、表玄関から店
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