《にしきこうじ》、沢の七卿はすでに難を方広寺に避け、明日は七百余人の長州兵と共に山口方面へ向けて退却するとのうわさがある。」
こういう意味の手紙が京都にある香蔵から半蔵のところに届いた。
支配階級の争奪戦と大ざっぱに言ってしまえばそれまでだが、王室回復の志を抱《いだ》く公卿たちとその勢力を支持する長州藩とがこんなに京都から退却を余儀なくされ、尊王攘夷を旗じるしとする真木和泉守《まきいずみのかみ》らの討幕運動にも一頓挫《いちとんざ》を来たしたについて、種々《さまざま》な事情がある。多くの公卿たちの中でも聡敏《そうびん》の資性をもって知られた伝奏|姉小路《あねがこうじ》少将(公知《きんとも》)が攘夷のにわかに行なわれがたいのを思って密奏したとの疑いから、攘夷派の人たちから変節者として目ざされ、朔平門《さくへいもん》の外で殺害された事変は、ことに幕府方を狼狽《ろうばい》せしめた。石清水《いわしみず》行幸のおりにすでにそのうわさのあった前侍従中山忠光を中心とする一派の志士が、今度の大和行幸を機会に鳳輦《ほうれん》を途中に擁し奉るというような風説さえ伝えられた。しかもこの風説は、大和地方における五条の代官鈴木源内らを攘夷の血祭りとした事実となってあらわれたのである。かねて公武合体の成功を断念し、政事総裁の職まで辞した越前藩主はこの形勢を黙ってみてはいなかった。同じ公武合体の熱心な主唱者の一人《ひとり》で、しばらく沈黙を守っていた人に薩摩《さつま》の島津久光もある。この人も本国の方でのイギリス艦隊との激戦に面目をほどこし、たとい敵の退却が風雨のためであるとしても勝敗はまず五分五分で、薩摩方でも船を沈められ砲台を破壊され海岸の町を焼かれるなどのことはあったにしても、すくなくもこの島国に住むものがそうたやすく征服される民族でないことをヨーロッパ人に感知せしめ、同時に他藩のなし得ないことをなしたという自信を得た矢先で、松平|春嶽《しゅんがく》らと共に再起の時機をとらえた。討幕派の勢力は京都から退いて、公武合体派がそれにかわった。大和行幸の議はくつがえされて、いまだ攘夷親征の機会でないとの勅諚《ちょくじょう》がそれにかわった。激しい焦躁《しょうそう》はひとまず政事の舞台から退いて、協調と忍耐とが入れかわりに進んだのである。
しかし、この京都の形勢を全く凪《なぎ》と見ることは早
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