計であった。九月にはいって、西からの使者が木曾街道を急いで来た。
「また早飛脚ですぞ。」
 清助も、栄吉もしかけた仕事を置いて、何事かと表に出て見た。早飛脚の荒い掛け声は宿場に住むものの耳についてしまった。


 とうとう、新しい時代の来るのを待ち切れないような第一の烽火《のろし》が大和地方に揚がった。これは千余人から成る天誅組《てんちゅうぐみ》の一揆《いっき》という形であらわれて来た。紀州《きしゅう》、津《つ》、郡山《こおりやま》、彦根《ひこね》の四藩の力でもこれをしずめるには半月以上もかかった。しかし闇《やみ》の空を貫く光のように高くひらめいて、やがて消えて行ったこの出来事は、名状しがたい暗示を多くの人の心に残した。従来、討幕を意味する運動が種々《いろいろ》行なわれないでもないが、それは多く示威の形であらわれたので、かくばかり公然と幕府に反旗を翻したものではなかったからである。遠く離れた馬籠峠の上あたりへこのうわさが伝わるまでには、美濃苗木藩《みのなえぎはん》の家中が大坂から早追《はやおい》で急いで来てそれを京都に伝え、商用で京都にあった中津川の万屋安兵衛《よろずややすべえ》はまたそれを聞書《ききがき》にして伏見屋の伊之助のところへ送ってよこした。この一揆《いっき》は「禁裏百姓」と号し、前侍従中山忠光を大将に仰ぎ、日輪に雲を配した赤地の旗を押し立て、別に一番から百番までの旗を用意して、初めは千余人の人数であったが、追い追いと同勢を増し、長州、肥後、有馬《ありま》の加勢もあったということである。公儀の陣屋はつぶされ、大和《やまと》河内《かわち》は大騒動で、やがて紀州へ向かうような話もあり、大坂へ向かうやも知れないとまで一時はうわさされたほどである。ともかくも、この討幕運動は失敗に終わった。天《てん》の川《かわ》というところでの大敗、藤本鉄石《ふじもとてっせき》の戦死、それにつづいて天誅組《てんちゅうぐみ》の残党が四方への離散となった。
 九月の二十七日には、木曾谷中宿村の役人が福島山村氏の屋敷へ呼び出された。その屋敷の御鎗下《おやりした》で、年寄と用達《ようたし》と用人《ようにん》との三役も立ち合いのところで、山村氏から書付を渡され、それを書記から読み聞かせられたというものを持って、伏見屋伊之助と問屋九郎兵衛の二人《ふたり》が福島から引き取って来た。
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