であった。九隻からのイギリス艦隊は薩摩の港に迫ったという。海と陸とでの激しい戦いはすでに戦われたともいうことであった。
五
「青山君――その後の当地の様子は鱗形屋《うろこがたや》の聞書《ききがき》その他の飛脚便によっても御承知のことと思う。大和国《やまとのくに》へ行幸を仰せ出されたのは去る八月十三日のことであった。これは攘夷《じょうい》御祈願のため、神武帝《じんむてい》御山陵ならびに春日社《かすがしゃ》へ御参拝のためで、しばらく御逗留《ごとうりゅう》、御親征の軍議もあらせられた上で、さらに伊勢神宮へ行幸のことに承った。この大和行幸の洛中《らくちゅう》へ触れ出されたのを自分が知ったのは、柳馬場丸太《やなぎのばばまるた》[#ルビの「ばば」はママ]町|下《さが》ル所よりの来状を手にした時であった。これは実にわずか七日前のことに当たる。
――一昨日、十七日の夜の丑《うし》の刻《こく》のころ、自分は五、六発の砲声を枕《まくら》の上で聞いた。寄せ太鼓の音をも聞いた。それが東の方から聞こえて来た。あわやと思って自分は起き出し、まず窓から見ると、会津家《あいづけ》参内《さんだい》の様子である。そのうち自分は町の空に出て見て、火事装束《かじしょうぞく》の着込みに蓑笠《みのかさ》まで用意した一隊が自分の眼前を通り過ぐるのを目撃した。
――しばらく、自分には何の事ともわからなかった。もっとも御祭礼の神燈を明けの七つごろから出した町の有志があって、それにつれて総町内のものが皆起き出し、神燈を家ごとにささげなどするうち、夜も明けた。昨日になって見ると、九門はすでに堅く閉ざされ、長州藩は境町御門の警固を止められ、議奏、伝奏、御親征|掛《がか》り、国事掛りの公卿《くげ》の参内もさし止められた。十七日の夜に参内を急いだのは、中川宮(青蓮院《しょうれんいん》)、近衛《このえ》殿、二条殿、および京都守護職松平|容保《かたもり》のほかに、会津と薩州の重立った人たちとわかった。在京する諸大名、および水戸、肥後、加賀、仙台などの家老がいずれもお召に応じ、陣装束で参内した混雑は筆紙に尽くしがたい。九門の前通りは皆往来止めになったくらいだ。
――京都の町々は今、会津薩州二藩の兵によってほとんど戒厳令の下にある。謹慎を命ぜられた三条、西三条、東久世《ひがしくぜ》、壬生《みぶ》、四条、錦小路
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