に疲れて横になるものがある。足を投げ出すものがある。半蔵が男の子の宗太や正己《まさみ》はおもしろがって、その間を泳いで歩いた。
「半蔵さん、すこしお話がある。一つ片づいて、やれうれしやと思ったら、また一つ宿場の問題が起こって来ました。」
 と言って隣家から訪《たず》ねて来る伊之助を寛《くつろ》ぎの間《ま》に迎えて見ると、東山道通行は助郷人足不参のため、当分その整理がつくまで大坂御番頭の方に断わりを出そうということであった。
「なんでも木曾十一宿の総代として、須原《すはら》からだれか行くそうです。大坂まで出張するそうです。」
「それじゃ、伊之助さん、馬籠からも人をやりましょう。」
 半蔵は栄吉や清助をそこへ呼んで、四人でその人選に額《ひたい》を鳩《あつ》めた。
 参覲交代制度変革以来の助郷の整理は、いよいよこの宿場に働くものにとって急務のように見えて来た。過ぐる六月の十七日から二十八日にわたる荷送りを経験して見て、伊那方面の人足の不参が実際にその困難を証拠立てた。多年の江戸の屋敷住居《やしきずまい》から解放された諸大名が家族もすでに国に帰り、東照宮の覇業《はぎょう》も内部から崩《くず》れかけて来たかに見えることは、ただそれだけの幕府の衰えというにとどまらなかった。その意味から言っても、半蔵は蓬莱屋《ほうらいや》新七が江戸出府の結果を待ち望んだ。
「そうだ。諸大名が朝参するばかりじゃない、将軍家ですら朝参するような機運に向かって来たのだ。こんな時世に、武家中心の参覲交代のような儀式をいつまで保存できるものか知らないが、しかし街道の整理はそれとは別問題だ。」
 と彼は考えた。
 旧暦七月半ばの暑いさかりに、半蔵は伊奈助郷のことやら自分の村方の用事やらで、木曾福島の役所まで出張した。ちょうどその時福島から帰村の途中に、半蔵は西から来る飛脚のうわさを聞いた。屈辱の外交とまで言われて支払い済みとなった生麦償金十万ポンドのほかに、被害者の親戚《しんせき》および負傷者の慰藉料《いしゃりょう》としてイギリスから請求のあった二万五千ポンドはそのままに残っていて、あの問題はどうなったろうとは、かねて多くの人の心にかかっていた。はたして、イギリスは薩州侯と直接に交渉しようとするほどの強硬な態度に出て、薩摩方ではその請求を拒絶したという。西からの飛脚が持って来たうわさはその談判の破裂した結果
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