かたがないから、また天保銭を一枚その袂の中へ入れてやりました。『よし、よし、これで勘弁してやる、』――そうあの旅の御衆が大威張《おおいば》りで言うじゃありませんか。これにはわたしも驚きましたよ。」
当時の街道に脅迫と強請の行なわれて来たことについては実にいろいろな話がある。「実懇《じっこん》」という言葉なぞもそこから生まれてきた。この実懇になろうとは、心やすくなろうとの意味であって、その言葉を武士の客からかけられた旅館の亭主《ていしゅ》は、必ず御肴代《おさかなだい》の青銅とか御祝儀《ごしゅうぎ》の献上金とかをねだられるのが常であった。町人百姓はまだしも、街道の人足ですら駕籠《かご》をかついで行く途中で武士風の客から「実懇になろうか」とでも言葉をかけられた時は、必ず一|分《ぶ》とか、一分二百とかの金をねだられることを覚悟せねばならなかった。貧しい武家衆や公卿《くげ》衆の質《たち》の悪いものになると、江戸と京都の間を一往復して、すくなくも千両ぐらいの金を強請し、それによって二、三年は寝食いができると言われるような世の中になって来た。どうして問屋場のものを脅迫する武家衆が天保銭一枚ずつの話なぞは、この街道ではめずらしいことではなくなった。
この脅迫と強請とがある。一方に賄賂《わいろ》の公然と行なわれていたのにも不思議はなかった。従来問屋場を通過する荷物の貫目にもお定めがあって、本馬《ほんま》一|駄《だ》二十貫目、軽尻《からじり》五貫目、駄荷《だに》四十貫目、人足一人持ち五貫目と規定され、ただし銭差《ぜにさし》、合羽《かっぱ》、提灯《ちょうちん》、笠袋《かさぶくろ》、下駄袋《げたぶくろ》の類《たぐい》は本馬一駄乗りにかぎり貫目外の小付《こづけ》とすることを許されていた。この貫目を盗む不正を取り締まるために、板橋、追分《おいわけ》、洗馬《せば》の三宿に設けられたのがいわゆる御貫目改め所であって、幕府の役人がそこに出張することもあり、問屋場のものの立ち合って改めたこともあった。そこは賄賂の力である程度までの出世もでき、御家人《ごけにん》の株を譲り受けることもできたほどの時だ。規定の貫目を越えた諸藩の荷物でもずんずん御貫目改め所を通過して、この馬籠の問屋場にまで送られて来た。
将軍家|御召替《おめしか》えの乗り物、輿《こし》、それに多数の鉄砲、長持を最後にして、連日の大
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