、雨中のつれづれに将軍留守中の江戸話を置いて行った。当時外交主任として知られた老中格の小笠原図書頭《おがさわらずしょのかみ》は近く千五、六百人の兵をひき連れ、大坂上陸の目的で横浜を出帆するとの風評がもっぱら江戸で行なわれていたという。これはいずれ生麦《なまむぎ》償金授与の事情を朝廷に弁疏《べんそ》するためであろうという。この仙台の家中の話で、半蔵は将軍|還御《かんぎょ》の日ももはやそんなに遠くないことを感知した。近く彼が待ち受けている大坂御番衆の江戸行きとても、いずれこの時局に無関係な旅ではなかろうと想像された。同時に、京都引き揚げの関東方の混雑が、なんらかの形で、この街道にまであらわれて来ることをも想像せずにはいられなかった。
 その時になって見ると、重大な任務を帯びて西へと上って行った尾州藩主のその後の消息は明らかでない。あの一行が中津川泊まりで馬籠を通過して行ってから、九日にもなる。予定の日取りにすれば、ちょうど京都にはいっていていいころである。藩主が名古屋に無事到着したまでのことはわかっていたが、それから先になると飛脚の持って来る話もごくあいまいで、今度の上京は見合わせになるかもしれないような消息しか伝わって来なかった。生麦償金はすでに払われたというにもかかわらず、宣戦の布告にもひとしいその月十日の攘夷期限が撤回されたわけでも延期されたわけでもない。こういう中で、将軍を京都から救い出すために一大示威運動を起こすらしい攘夷反対の小笠原図書頭のような人がある。漠然《ばくぜん》とした名古屋からの便《たよ》りは半蔵をも、この街道で彼と共に働いている年寄役伊之助をも不安にした。

       四

 もはや、西の下《しも》の関《せき》の方では、攘夷を意味するアメリカ商船の砲撃が長州藩によって開始されたとのうわさも伝わって[#「伝わって」は底本では「伝わつて」]来るようになった。
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  小倉藩《こくらはん》より御届け
    口上覚《こうじょうおぼ》え
「当月十日、異国船一|艘《そう》、上筋《かみすじ》より乗り下し、豊前国《ぶぜんのくに》田野浦|部崎《へさき》の方に寄り沖合いへ碇泊《ていはく》いたし候《そうろう》。こなたより船差し出《いだ》し相尋ね候ところアメリカ船にて、江戸表より長崎へ通船のところ天気|悪《あ》しきため、碇泊いたし、明朝出帆のつ
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