もりに候おもむき申し聞け候間、番船付け置き候。しかるところ、夜に入り四つ時ごろ、長州様軍艦乗り下り、右碇泊いたし候アメリカ船へ向け大砲二、三発、ならびにかなたの陸地よりも四、五発ほど打ち出し候様子のところ、異船よりも二、三発ほど発砲いたし、ほどなく出船、上筋へ向かい飄《ただよ》い行き候。もっとも夜中《やちゅう》の儀につき、しかと様子相わからず候段、在所表《ざいしょおもて》より申し越し候間、この段御届け申し上げ候。以上。」
[#地から7字上げ]小笠原左京大夫内
[#地から2字上げ]関重郎兵衛
[#ここで字下げ終わり]
 これは京都に届いたものとして、香蔵からわざわざその写しを半蔵のもとに送って来たのであった。別に、次ぎのような来状の写しも同封してある。
[#ここから1字下げ]
  五月十一日付
    下の関より来状の写し
「昨十日異国船一|艘《そう》、ここもと田野浦沖へ碇泊《ていはく》。にわかに大騒動。市中荷物を片づけ、年寄り、子供、遊女ども、在郷《ざいごう》へ逃げ行き、若者は御役申し付けられ、浪人武士数十人異船へ乗り込みいよいよ打ち払いの由に相成り候《そうろう》。同夜、子《ね》の刻《こく》ごろより、石火矢《いしびや》数百|挺《ちょう》打ち放し候ところ、異船よりも数十挺打ち放し候えども地方《じかた》へは届き申さず。もっとも、右異船は下り船に御座候ところ、当瀬戸の通路つかまつり得ず、またまた跡へ戻《もど》り、登り船つかまつり候。当方武士数十人、鎧兜《よろいかぶと》、抜き身の鎗《やり》、陣羽織《じんばおり》を着し、騎馬数百人も出、市中は残らず軒前《のきさき》に燈火《あかり》をともし、まことにまことに大騒動にこれあり候。しかるところ、長州様蒸気船二艘まいり、石火矢《いしびや》打ち掛け、逃げ行く異船を追いかけ二発の玉は当たり候由に御座候。その後、異船いずれへ逃げ行き候や行くえ相わかり申さず。ようやく今朝一同引き取りに相成り鎮《しず》まり申し候。しかし他の異国船五、六艘も登り候うわさもこれあり、今後瀬戸通路つかまつり候えば皆々打ち払いに相成る様子、委細は後便にて申し上ぐべく候。以上。」
[#ここで字下げ終わり]
 とある。
 関東の方針も無視したような長州藩の大胆な行動は、攘夷を意味するばかりでなく、同時に討幕を意味する。下の関よりとした来状の写しにもあるように、この異国船の
前へ 次へ
全217ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング