の中に立った人もめずらしい。前将軍の早世も畢竟《ひっきょう》この人あるがためだとして、慶喜を目するに家茂の敵《かたき》であると思う輩《やから》は幕府内に少なくないばかりでなく、幕府反対の側にある京都の公卿《くげ》たちおよび薩長の人士もまたこの人の新将軍として政治の舞台に上って来たことを恐れた。慶喜が徳川家を相続するとは言っても、将軍職を受けることは固く辞したいと言い出した時に、それを聞いて油断のならない人物としたのは岩倉公だ。慶喜の人物を評して、「譎詐《けっさ》百端《ひゃくたん》の心術」の人であるとなし、賢い薩州侯の公論を至極《しごく》公平に受けいれることなぞおぼつかないと考え、ことに慶喜が懐刀《ふところがたな》とも言うべき水戸出身の原|市之進《いちのしん》とは絶えざる暗闘反目を続けていたのも薩摩の大久保一蔵《おおくぼいちぞう》だ。慶喜を家康の再来だとして、その武備を修める形跡のあるのは警戒しなければならないとしたのは長州の木戸準一郎《きどじゅんいちろう》だ。
 しかし、慶喜も水戸の御隠居の子である。弘道館《こうどうかん》の碑に尊王の志をのこした烈公の血はこの人の内にも流れていた。朝廷と幕府とが相対立しすべての方針が二途に分かれるような現状を破って、天皇の大御代《おおみよ》を出現しないかぎり、海外諸国の圧迫に対抗してこの国の独立を維持しがたいとの民間志士の信念を受けいれたものも慶喜であった。自ら進んで諸侯の列に下り、この国を郡県の制度の下に置くか、あるいはドイツあたりの連邦の制度に改めるかの一大改革を行ないたいとの念が早くもその胸のうちにきざしはじめていたのもこの新将軍であった。その意味から言って、飽くまで公武一和を念とせられ、王政復古を急ぐ岩倉公らを戒められたという先帝の崩御《ほうぎょ》ほど、この慶喜にとっての深い打撃はなかった。およそ先帝を惜しみ奉らないものはない中で、ことにその悲しみを深くしたものは、言うことなすこと周囲に誤解された慶喜であろう。大政奉還の悲壮な意志は後日を待つまでもなく、おそらく将軍職を拝してから間もなかった霜夜の御野辺送《おんのべおく》りを済ました時に、すでにこの人の内に動いたであろう。
 慶応三年といえば西暦千八百六十七年、実に十九世紀の後半期に当たる。フランスではナポレオン第三世の時代に当たり、イギリスではヴィクトリア女皇の時代に当たる
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