。新知識を吸集するに鋭意な徳川新将軍の代となってから、仏国公使ロセスの建言を用い、新内閣の組織を改め、大いに人材登庸の道を開き、商工業に関する諸税を課することから鉱山を開き運輸を盛んにすることまで、種々《さまざま》な計画は皆「土蔵付き売屋」の意味を帯びていた。将軍家の弟なる松平|民部太夫《みんぶだゆう》、外国奉行喜多村|瑞見《ずいけん》などの人たちが前後して仏国に使いする日をすら迎えた。こんなに幕府側がフランスに結ぶことの深ければ深いほど、薩摩藩および長州藩ではイギリスに結んで、ヨーロッパにおける二大強国はいつのまにかこの国の背景としても相対抗するようになった。いよいよ兵庫開港の議も決せられ、長州藩主父子も許された。最も古くて、しかも最も新しい太陽を迎えようとする思いは、日一日と急な時勢の潮流と相まって、各人の胸に入り乱れた。
 その年の九月には、王政復古を待ち切れないような諸勢力が相呼応して慶喜の目の前にあらわれかけて来た。その意は土佐を中心に頭を持ち上げて来た公儀政体組織の下に温和に王政復古の実をあげたいという説を手ぬるいとなし、長州芸州と連合して一切の解決を兵力に訴え、慶喜および会津桑名の勢力を京都より一掃して、岩倉公らと連絡を取りながら王室回復の実をあげようとするにある。往昔関ヶ原の合戦に屈してからこのかた、西の国のすみに忍耐し続けて来た松平修理太夫領内の健児らが、三世紀にわたる徳川氏の抑圧を脱しようとして、勇敢に動き始めたというは不思議でもない。おまけに相手は防長征討軍の苦《にが》い経験をなめ、いったん討死《うちじに》の覚悟までした討幕の急先鋒《きゅうせんぽう》だ。この尻《しり》押しには、英国公使パアクスのようなロセスの激しい競争者もある。薩摩は挙兵上京と決して海路から三田尻《みたじり》に着こうというのであり、長州でもそれを待って相共に兵を上国に送ろうとして、出発の準備にいそがしかった。いわゆる薩長芸三藩が攻守同盟の成立だ。この形勢をみて取った松平容堂は薩長の態度を飽き足りないとして、一新更始の道を慶喜に建白した。過去の是非曲直を弁難するとも何の益がない、この際は大きく目を開いて万国に対しても恥じないような大根底を打ち建てねばならない、それには天下万民と共に公明正大の道理に帰り、皇国数百年の国体を一変して、王政復古の業を建つべき一大機会に到達したと力説した
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