役人でも単騎独歩で苦しくないとされるようになったのは、皆この慶喜の時代に始まる。フランス伝習の陸軍所が建設せられ、御軍艦操練所は海軍所と改められ、英仏学伝習所が横浜に開かれたのも、その結果だ。小普請組支配の廃止、火付け盗賊改めの廃止、中奥御小姓《なかおくおこしょう》同御番の廃止、御持筒頭《おもちづつがしら》の廃止、御先手《おさきて》御留守番と西丸御裏御門番と頭火消役四組との廃止なぞも、またその結果だ。すべて古式古風な散官遊職は続々廃止されて、西洋陸軍の制度に旗本の士を改造する方針が立てられた。もはや旗本の士は殿様の威儀を捨てて単騎独歩する元亀《げんき》天正《てんしょう》の昔に帰った。とにもかくにもいわゆる旗下《はたもと》八万騎を挙《あ》げて洋式の陸軍隊を編成し、応募の新兵はフランス人の教官に託し、従来|羽織袴《はおりはかま》に刀を帯びて席上にすわっていたものに筒袖《つつそで》だん袋を着せ舶来の銃を携えさせて江戸城の内外を巡邏《じゅんら》せしめるようになったというだけでも、いかに新将軍親政の手始めが旧制の一大改革にあったかがわかる。
この方針は地方にまで及んで行った。旧《ふる》い伝馬制度の改革もしきりに企てられ、諸街道の人民を苦しめた諸公役らの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、助郷《すけごう》の苦痛とする刎銭《はねせん》の割合も少なくなって、街道宿泊の方法までも簡易に改められた。手形なしには関所をも通れなかったほどの婦人が旅行の自由になったことは、この改革に忘れてならないことの一つだ。日ごろ深窓にのみこもり暮らした封建時代の婦人もその時すでに解放の第一歩を踏み出した。
もともと慶喜は自ら進んで将軍職を拝した人でもない。家茂《いえもち》薨去《こうきょ》の後は、尾州公か紀州公こそしかるべしと言って、前将軍の後継者たることを肯《がえん》じなかった人である。周囲の懇望によりよんどころなく徳川の家督を相続しても、それは血統の事であるとして、容易に将軍職を受けようとは言わなかったのもこの人だ。所詮《しょせん》、徳川家も滅亡か、との松平春嶽《まつだいらしゅんがく》らの異見を待つまでもなく、天下公論の向かうところによっては少しの未練なく将軍職をなげ出そうとは、就職当時からの慶喜が公武一和の本領ででもあったのだ。
この十五代ほど四方八方からの誤解
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