、もはや時事はいかんともすることができないと知りながらも、幕府の存在するかぎり、一日も任務を尽くさねばならないとする人の口から出た言葉である。実際、幕府内にはこういう人もいた。こういう諧謔の意味は知る人ぞ知ると言って、その志を憐《あわれ》む喜多村瑞見のような人もまた幕府内にいた。言って見れば、山上一族が住む相州|三浦《みうら》の公郷村《くごうむら》からほど遠からぬ横須賀の漁港に、そこに新しいドック修船所が幕府の手によって開き始められていたのだ。地中海にある仏国ツウロン港の例にならい、ややその規模を縮小し、製鉄所、ドック、造船場、倉庫等の従来東洋になかった計画がそこに起こり始めていたのだ。そして、江戸幕府が没落の運命をたどりつつあったことは、幕府内部のものですらそれを痛感していた間にも、来たるべき時代のためにせっせとしたくを怠るまいとするような、こんな近代的な設備がその一隅《いちぐう》には隠れていた。
十五代将軍|慶喜《よしのぶ》は、あだかもこの土蔵付き売屋の札をながめに徳川の末の代にあらわれて来たような人である。その人を好むと好まないとにかかわらず、当時この国の上下のものが将軍職として仰ぎ見ねばならなかったのも、一橋からはいって徳川家を相続した慶喜である。しかし、この新将軍が貴冑《きちゅう》の族《やから》ながらも多年内外の政局に当たり、見聞も広く、経験も積んでいて、決して尋常の貴公子でないことを忘れてはならない。
慶喜の新生涯は幾多の改革に着手することから始められた。これは文久改革以来の慶喜の素志にもより、一つは長州征伐の大失敗が幕府の覚醒《かくせい》を促したにもよる。そういう幕府は無謀な大軍を西へ進める当時に、尾州の御隠居や越前藩主なぞの諫争《かんそう》をきき入れないでおいて、今となって目をさましてもおそかった。しかしおそくも目をさましたのは、さまさないには勝《まさ》っている。この戦争によって幕府をはじめ諸藩の軍制および諸制度はにわかに改革を促された。従来、数十人ないし百人以上の家臣従僕が列をなして従った大名|旗下《はたもと》の供数も、万石以上ですら従者五人、布衣《ほい》以下は侍一人に草履取り一人とまで減少された。二百年間の繁文縟礼《はんぶんじょくれい》[#「縟礼」は底本では「褥礼」]が驚くべき勢いで廃止され、上下共に競って西洋簡易の風《ふう》に移り、重い
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