、いよいよ創立の時期を迎えたからで。その月の二十一日には社殿が完成し、一切の工事を終わったからで。荷田春満《かだのあずままろ》、賀茂真淵《かものまぶち》、本居宣長《もとおりのりなが》、平田篤胤、それらの国学四大人の御霊代《みたましろ》を安置する空前の勧請遷宮式《かんじょうせんぐうしき》が山吹村の条山《じょうざん》で行なわれることになって、すでにその日取りまで定まったからで。
 このめずらしい条山神社の実際の発起者たる平田門人|山吹春一《やまぶきしゅんいち》は、不幸にも社殿の完成を見ないで前の年の九月に亡《な》くなった。それらの事情はこの事業に一頓挫《いちとんざ》を来たしたが、春一の嗣子左太郎と別家|片桐衛門《かたぎりえもん》とが同門の人たちの援助を得て、これを継続完成した。山吹社中が奔走尽力の結果、四大人の遺族から贈られたという御霊代は得がたい遺品ばかりである。松坂の本居家からは銅製の鈴。浜松の賀茂家からは四寸九分無銘|白鞘《しらさや》の短刀。荷田家からは黄銅製の円鏡。それに平田家からは水晶の玉、紫の糸で輪につないだ古い瑠璃玉《るりだま》。まだこのほかに、山吹社中の懇望によって鉄胤から特に贈られたという先師篤胤が遺愛の陽石。
 この報告が馬籠へ届くたびに、半蔵はそれを親たちにも話し妻にも話し聞かせて、月の二十四日と定まった遷宮式には何をおいても参列したいと願っていた。よい事には魔が多い。その二日ほど前あたりから彼は腹具合を悪くして、わざわざ中津川の景蔵と香蔵とが誘いに寄ってくれた日には、寝床の中にいた。
「半蔵さんは出かけられませんかね。」
「そいつは残念だなあ。この正月あたりから一緒に行くお約束で、わたしたちも楽しみにして待っていましたのに。」
 この二人の友人が伊那の山吹村をさして発《た》って行く姿をも、半蔵は寝衣《ねまき》の上に平常着《ふだんぎ》を引き掛けたままで見送った。
 ちょうど、その年の三月は諒闇《りょうあん》の春をも迎えた。友人らの発《た》って行った後、半蔵は店座敷に戻《もど》って東南向きの障子をあけて見た。山家も花のさかりではあるが、年が年だけにあたりは寂しい。彼は庭先にふくらんで来ている牡丹《ぼたん》の蕾《つぼみ》に目をやりながら、この街道に穏便《おんびん》のお触れの回ったのは正月十日のことであったが、実は主上の崩御《ほうぎょ》は前の年の十二月二
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