半蔵の寝言《ねごと》だ。
 東照宮二百五十年忌を機会として大いに回天の翼を張ろうとした武家の夢もむなしい。金扇の馬印《うまじるし》を高くかかげて出発して来た江戸の方には、家茂公《いえもちこう》を失った後の上下のものが袖《そで》に絞る涙と、ことに江戸城奥向きでの尽きない悲嘆とが、帰東の公儀衆を待っていた。のみならず、あの大きな都会には将軍進発の当時にもまさる窮民の動揺があって、飢えに迫った老幼男女が群れをなし、その町々の名を記《しる》した紙の幟《のぼり》を押し立て、富有な町人などの店先に来て大道にひざまずき、米価はもちろん諸品|高直《たかね》で露命をつなぎがたいと言って、助力を求めるその形容は目も当てられないものがあるとさえ言わるる。富めるものは米一斗、あるいは五升、ないし一俵二俵と施し、その他雑穀、芋《いも》、味噌《みそ》、醤油《しょうゆ》を与えると、それらの窮民らは得るに従って雑炊《ぞうすい》となし、所々の鎮守《ちんじゅ》の社《やしろ》の空地《あきち》などに屯集《とんしゅう》して野宿するさまは物すごいとさえ言わるる。紀州はじめ諸藩士の家禄《かろく》は削減せられ、国札《こくさつ》の流用はくふうせられ、当百銭(天保銭)の鋳造許可を請う藩が続出して、贋造《がんぞう》の貨幣までがあらわれるほどの衰えた世となった。
 革命は近い。その考えが半蔵を休ませなかった。幕府は無力を暴露し、諸藩が勢力の割拠はさながら戦国を見るような時代を顕出した。この際微力な庄屋としてなしうることは、建白に、進言に、最も手近なところにある藩論の勤王化に尽力するよりほかになかった。一方に会津、一方に長州薩摩というような東西両勢力の相対抗する中にあって、中国の大藩としての尾州の向背《こうはい》は半蔵らが凝視の的《まと》となっている。そこには玄同様付きの藩士と、犬千代様付きの藩士とある。藩論は佐幕と勤王の両途にさまよっている。たとい京都までは行かないまでも、最も手近な尾州藩に地方有志の声を進めるだけの狭い扉《とびら》は半蔵らの前に開かれていた。彼は景蔵や香蔵と力をあわせ、南信東濃地方にある人たちとも連絡をとって、そちらの方に手を尽くそうとした。

       四

 慶応三年の三月は平田|篤胤《あつたね》没後の門人らにとって記念すべき季節であった。かねて伊那《いな》の谷の方に計画のあった新しい神社も
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