府の老中らはその専断で外人の圧迫を免れようとする日にあたり、慶喜は飽くまで公武一和の道を守り、勅命を仰ぐの必要を主張し、断然として幕府を制《おさ》える態度に出たからである。かつて安政大獄を引き起こしたほどの幕府内部の暗闘――神奈川条約調印の是非と、徳川世子の継嗣問題とにからんであらわれたそれらの根深い党争は、長くその時まで続いて来た。慶喜の野心を疑う老中らは、ほとんど水戸の野心を疑う安政当時の紀州|慶福《よしとみ》擁立者たちに異ならなかった。老中らは慶喜の態度をもって、ことさらに幕府をくるしめるものとした。日ごろの慶喜排斥の声がその時ほど深刻な形をとってあらわれて来たこともなかった。幕府は老中|罷免《ひめん》に対する反抗の意志を上疏《じょうそ》の手段に表白したばかりでなく、その鋒先《ほこさき》を「永々《ながなが》在京、事務にも通じた」というところの慶喜に向けた。そして、将軍家茂に勧めて、慶喜に政務を譲りたい旨《むね》、諸事家茂の時のように御委任ありたい旨、その御沙汰《ごさた》を慶喜へ賜わるように朝廷に願い出た。
将軍はすでに伏見《ふしみ》に移った。大坂城を去る日、扈従《こじゅう》の面々が始めて将軍帰東の命をうけた時は皆おどろいて顔色を失い、相顧みて言葉を出すものもない。その時、講武所生徒の銃隊長と同じ刀鎗《とうそう》隊長とが相談の上、各隊の頭取《とうどり》を集めて演説し、銃隊は先発のことに、刀鎗隊は将軍警備のことに心得よと伝えたところ、銃隊は早速《さっそく》その命令に服したが、刀鎗隊はなかなか服従しないで各自の意見を述べるなど、一時は悲壮な混雑の光景を呈した。その中には一言も発しないで、涙をのみながら始終|謹《つつし》んで命をきいていた隊士もあったという。
一橋慶喜はこの事を聞いて尾州公を語らい、会津、桑名の両侯をも同道して、伏見にある奉行の館《やかた》に急いだ。将軍に面謁して、その決意をひるがえさせることを努めた。上疏を奉ったのみで、直ちに帰東せらるるはよろしくない、しかも帝《みかど》と将軍とは義理ある御兄弟《ごきょうだい》の間柄でもある、必ず京都へ上られて親しく事情を奏聞の後でなければ敬意を欠く、ぜひともしばらく思いとどまって進退完全の処置なくてはかなわぬ場合である、慶喜らはそれを言って、固く執ってやまなかった。この辞職譲位は幕府の老中らも心から願っているこ
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