とではもとよりない。とうとう、将軍は伏見から京都へと引き返し、二条城にはいって、慶喜をして種々代奏せしめた。その時、監察の向山栄五郎も、上疏の草稿が彼の手に成ったというかどで深く朝廷から憎まれたと見え、それとなく忌避の御沙汰があった。三日を出ないうちに、これも職を奪われ、家に禁錮《きんこ》を命ぜられた。
 これらの報知《しらせ》が江戸城へ伝えられた時の人々の驚きはなかったという。ことに天璋院《てんしょういん》、和宮様《かずのみやさま》をはじめ、大奥にある婦人たちの嘆きは一通りでなかったとか。中には慟哭《どうこく》して、井戸に身を投げようとしたものがあり、自害しようとするものさえあったという。
 慶応元年十月五日はこの国の歴史に記念すべき日である。一橋慶喜をはじめ、小笠原壱岐守《おがさわらいきのかみ》、松平越中守《まつだいらえっちゅうのかみ》、松平肥後守が連署して、外国条約の勅許を奏請したのも、その日である。その前夜には、この大きな問題について意見を求めるために、諸藩の藩士が御所に召された。三十六人のものがそのために十五藩から選ばれた。三人は薩摩から、三人は肥後から、三人は備前から、四人は土佐から、二人は久留米《くるめ》から、一人は因州から、一人は福岡《ふくおか》から、一人は金沢から、一人は柳川《やながわ》から、二人は津《つ》から、一人は福井から、一人は佐賀から、一人は広島から、五人は桑名から、それに七人は会津から。徳川将軍の進退と外国条約の問題とが諸藩の藩主でなしに、その重立った家来によって議せらるるようになったとは、そこにも時勢の推し移りを語っていた。井伊大老の時代以来、幾たびか幕府で懇請して許されなかった条約も、朝廷としては四国の力を合わせた黒船に直面し、幕府としては将軍の職を賭《か》けるところまで行って、ようやくその許しが出た。長い鎖国の解かれる日も近づいた。


 山口|駿河《するが》は大坂にいた。その時は将軍も大坂城を発したあとで、そこにとどまるものはただ老中の松平|伯耆《ほうき》と城代《じょうだい》牧野越中《まきのえっちゅう》とがある。その他は町奉行、および武官の番頭《ばんがしら》ばかりだ。駿河は外国応接の用務のためにそこに残っていたが、相談相手とすべき人もなく、いたずらに大坂と兵庫の間を往復して各公使を言いなだめていた。彼はまだ京都からの決答も聞かず、
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