く前例のないことであった。いろいろな議論が出て、一座は鼎《かなえ》の沸くがごとくである。その時、山口|駿河《するが》は監察(目付)の向山栄五郎《むこうやまえいごろう》(黄村)と共に進み出て、将軍が臣下のことは黜陟《ちゅっちょく》褒貶《ほうへん》共に将軍の手にあるべきものと存ずる、しかるに、今朝廷からこの指令のあるのは将軍の権を奪うにもひとしい、将権がひとたび奪われたら天下の政事《まつりごと》はなしがたい、ただいま内外多端の際に喙《くちばし》を容《い》れてその主任の人を廃するのは将軍をして職掌を尽くさしめないのである、上は帝《みかど》の知遇を辱《はず》かしめ下は万民の希望にそむき祖先へ対しても実に面目ない次第だ、すみやかに大任を解き関東へ帰駿《きしゅん》あって、すこしも未練がましくない衷情を表されるこそしかるべきだと申し上げた。これにはだれも服さない。激しい声は席に満ちて来た。その時の家茂の言葉に、両人ともよく言った、その意見は至極《しごく》自分の意に適《かな》った、自分は弱年の身でこの大任を受け継いだとは言うものの、不幸にして内外多事な時にあたり、禍乱はしずめ得ず、人心は統御し得ず今また半途にして股肱《ここう》の臣までも罷《や》めさせられることになった、畢竟《ひっきょう》これは不才のいたすところで、所詮《しょせん》自分の力で太平を保つことはおぼつかない。いさぎよく位を避けて隠退しよう、一橋慶喜をあげて朝廷の命をきこう、ついては謹《つつし》んで叡旨《えいし》を奉じ豊後伊豆両人の登城は差し止めるがいい、それを言って将軍が奥へはいった時は、すすり泣く諸臣の声がそこにもここにも起こった。
実に、徳川氏の運命は驚かれるほどの勢いをもってこの時に急転した。間もなく将軍の辞職となった。上疏《じょうそ》の草稿は向山栄五郎が作った。年若な将軍はまだようやく二十歳にしかならない。その上疏も栄五郎の書いたのを透き写しにされ、親《みずか》ら署名して、それを尾州公(徳川|茂徳《しげのり》、当時|玄同《げんどう》と改名)に託された。なお、その上疏には諸有司相談の上で、一通の別紙を添え、開港のやみがたいことを述べ、征夷《せいい》大将軍の職を賭《か》けても勅許を争おうとする幕府の目的を明らかにした。
しかし、その時になって見ると、幕府内の心あるものは決して党争のために水戸を笑えなかった。幕
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