大名の憂慮したような死守の勢いにまで長州方を追いつめてしまった。
 幕府方にはすでに砲刃矢石《ほうじんしせき》の間に相見る心が初めからない。金扇のかがやきは高くかかげられても、山陽道まで進もうとはしない。大軍が悠々《ゆうゆう》と閑日月《かんじつげつ》を送る地は豊臣《とよとみ》氏の恩沢を慕うところの大坂である。ある人の言葉に、ほととぎすは啼《な》いて天主台のほとりを過ぎ、五月《さつき》の風は茅渟《ちぬ》の浦端《うらわ》にとどまる征衣を吹いて、兵気も三伏《さんぷく》の暑さに倦《う》みはてた、とある。
 過ぐる文久年度の生麦《なまむぎ》事件以上ともいうべき外国関係の大きなつまずきが、この不安な時の空気の中に引き起こって来た。


 安政五年の江戸条約が諸外国との間に結ばれてから、すでに足掛け八年になる。この条約によると、神奈川《かながわ》、長崎、函館《はこだて》の三港を開き、新潟《にいがた》の港をも開き、文久二年十二月になって江戸、大坂、兵庫《ひょうご》を開くべき約束であった。文久年度の初めになって見ると、当時の排外熱は非常な高度に達して、なかなか江戸、大坂、兵庫のような肝要な地を開くべくもなかった。時の老中|安藤対馬《あんどうつしま》は新潟、兵庫、江戸、大坂の開港延期を外国公使らに提議し、輸入税の減率を報酬として、五か年間の延期を承諾させたのである。
 過ぐる四年は、実にこの国が全くの未知数とも言うべきヨーロッパに向かって大切な窓々を開くべきか否かの瀬戸ぎわに立たせられた苦《にが》い試練の期間であった。下の関における長州藩が外国船の砲撃なぞもこの間に行なわれた。その代償として、幕府が三百万両からの背負《しょ》い切れないほどの償金を負わせられたのも、当時に高い排外熱の結果にほかならない。
 最初この償金は長州藩より提出すべき四国公使の要求であったという。しかし同藩では朝廷と幕府の命令に基づいて砲撃したのであるから、これを幕府に求めるのが当然だと言い張り、四国公使もまた長州藩から出させることの困難を察して、幕府が大名の取り締まりを怠りその職責を尽くさなかったことの罪に帰した。この償金の無理なことは四国公使も承知していて、例の開港さえ決行したなら償金は要求しないとの意味をその際の取りきめ書に付け添えたくらいである。そういう公使らはとらえられるだけの機会をとらえて、条約の履行を
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