、東照宮の覇業《はぎょう》を追想するものの願いであったのだ。再度の長州征伐は徳川全盛の昔を忘れかねる諸有司の強硬な主張から生まれた。これは長防の征討とは言うものの、その実、種々《さまざま》な目的をもって企てられた。四国外交団をあやなすこともその一つであった。ひそかに朝廷に結ぼうとする外藩をくじくこともその一つであった。飽くまでも公武合体の道を進もうとする一橋慶喜と会津との排斥も、あるいはその奥の奥には隠されてあったと言うものもある。
閏《うるう》五月十六日、将軍はついに征長のために進発した。往時東照宮が関ヶ原合戦の日に用いたという金扇の馬印《うまじるし》はまた高くかかげられた。江戸在府の譜代の諸大名、陸軍奉行、歩兵奉行、騎兵頭、剣術と鎗術《そうじゅつ》と砲術との諸師範役、大目付《おおめつけ》、勘定奉行、軍艦奉行なぞは供奉《ぐぶ》の列の中にあった。その盛んな軍装をみたものは幕府の威信がまだ全く地に墜《お》ちないことを感じたという。江戸の町人で三万両から一万両までの御用金を命ぜられたものが二十人もあり、全国の寺社までが国恩のために上納金を願い出ることを説諭された。幕府がこの進発の入用のために立てた一か月分の予算は十七万四千二百両の余であった。当時幕府には二つの宝蔵があって、富士見《ふじみ》にあるを内蔵《うちぐら》ととなえ、蓮池《はすいけ》にあるを外蔵《そとぐら》ととなえたが、そのうち内蔵にあった一千万両の古金をあげてこの進発の入用にあてたというのを見ても、いかに大がかりな計画であったかがわかる。
同じ月の二十二、三日には将軍はすでに京都に着き、二十五日には大坂城にはいった。伝うるところによると、前年尾州の御隠居が総督として芸州《げいしゅう》まで進まれた時は実に長州に向かって開戦する覚悟であった、それにひきかえて今度の進発は初めから戦わない覚悟である。いかに長州が強藩でも天下の敵に当たって戦うことはできまい、去年尾州殿の陣頭にさえ首を下げて服罪したくらいである、まして将軍家の進発と聞いたら驚き恐れて毛利《もうり》父子が大坂に来たり謝罪して御処置を奉ずるのは、あだかも関ヶ原のあとで輝元《てるもと》一家が家康公におけるがごとくであろう。これは幕府方の閣老をはじめ幕軍一同の期待するところであったという。ところが再度の長防征討の企ては、備前家や越前家をはじめこの進発に不服な諸
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