幕府に促そうとした。四年の月日は早くも経過して慶応元年となったが、幕府にはさらに開港の準備をする様子もない。そこで下の関償金三分の二を免除する代わりに兵庫の先期開港を幕府に迫れと主張する英国の新公使パアクスのような人が出て来た。その強い主張によると、幕府は条約にそむくことの恐るべき結果を生ずる旨《むね》を朝廷に申し上げて、よろしく条約の勅許を仰ぐべきである。それでもなお勅許を得られないとあるなら、四国公使はもはや徳川将軍を相手としまい、直接に朝廷に向かって条約の履行を要求しようというにあった。英艦四隻、仏艦三隻、米艦一隻、蘭艦《らんかん》一隻、都合九隻の艦隊が連合して横浜から兵庫に入港したのは、その年の九月十六日のことであった。十七日には、そのうち三隻が大坂の天保山沖《てんぽうざんおき》まで来て、七日を期して決答ありたいという各公使らの書翰《しょかん》を提出した。莫大《ばくだい》な費用をかけて江戸から動いた幕府方は、国内の強藩を相手とする前に、より大きな勢力をもって海の外から迫って来たものを相手としなければならなかったのである。どうしてこれは長州征伐どころの話ではなかった。四国連合の艦隊を向こうに回しては、長州藩ですら敵し得なかったのみか、砲台は破壊され、市街は焼かれ、今すこしで占領の憂《う》き目を見るところであったことは、下の関の戦いが実際にそれを証拠立てていた。
連合艦隊出動のことが江戸に聞こえると、江戸城の留守をあずかる大老や老中は捨て置くべき場合でないとして、昼夜兼行で大坂に赴《おもむ》きその交渉の役目に服すべき二人を任命した。山口|駿河《するが》はその一人《ひとり》であったのだ。
山口駿河は号を泉処《せんしょ》という。当時外国奉行の首席である。函館奉行の組頭《くみがしら》から監察(目付)に進んだ友人の喜多村瑞見《きたむらずいけん》とも親しい。この人が大坂へ出て行って、将軍にも面謁《めんえつ》し、江戸の方にある大老や老中の意向を伝えたころは、当路の諸有司は皆途方に暮れている。将軍は西上して国内がすでに多端の際であるのに、この上、外国から逼《せま》られてはどうしたらいいかと言って、ほとんどなすべきところを知らないに近いようなものばかりだ。その時、駿河は改めて大目付兼外国奉行に任ずるよしの命をうけ、とりあえず外国船に行って一応の尋問をなし、二十三日には老
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