の探偵《たんてい》は日夜織るがごとくであり、実にまれなる騒擾《そうじょう》であったという。十二月の十日ごろには加州金沢藩の士卒二千余人が一橋中納言の命を奉じてまず敦賀に着港し、続いて桑名藩の七百余人、会津藩の千余人、津藩の六百余人、大垣藩《おおがきはん》の千余人、水戸藩の七百人が着港した。このほかに、間道、海岸、山々の要所要所へ出兵したのは福井藩、大野藩、彦根藩《ひこねはん》、丸山藩であって、その中でも監軍永原甚七郎に率いられる加州の士卒が先陣を承ったものらしい。水戸浪士の一行がこんな大軍の囲みの中にあって、野も山もほとんど諸藩の士卒で埋《うず》められたとは、半蔵などの想像以上であった。
武田耕雲斎は新保宿を距《さ》る二十町ほどの村に加州の兵が在陣すると聞き、そこで一書を金沢藩の陣に送って西上の趣意を述べ、諸藩の兵に対して敵意のないことを述べ、一同のために道を開かれたいと願った。その時の加州方からの返書は左のようなものであったとある。
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お手紙|披見《ひけん》いたし候《そうろう》。されば御嘆願のおもむきこれあり候につき、滞りなく通行の儀、かつ外諸侯へ対し接戦の存じ寄り毛頭これなき旨《むね》、委曲承知いたし候えども、加賀中納言殿人数当宿出張いたし候儀は一橋中納言殿の厳命に候条、是非なく一戦に及ぶべき存じ寄りに御座候。なお、後刻を期し一戦の節は御報に及ぶべく候。貴報かくのごとくに御座候。以上。
子《ね》十二月十一日[#地から7字上げ]加賀中納言内
[#地から2字上げ]永原甚七郎
武田伊賀守殿内
安藤彦之進殿
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時に雪は一丈余、浪士らは食も竭《つ》き、力も窮まった。金沢藩ではそれを察し、こんな飢えと寒さとに迫られたものと交戦するのは本意でないとして、その日に白米二百俵、漬《つ》け物十|樽《たる》、酒二|石《こく》、※[#「魚+昜」、198−14]《するめ》二千枚を武田の陣中に送った。同時に来たる十七日の暁天を期して交戦に及ぼうとの戦書をも送った。ところが耕雲斎は藤田小四郎以下三名の将士を使者として金沢藩の陣所に遣《つか》わし、永原甚七郎に面会を求めさせた。甚七郎は帯刀までそこへ投げ捨てるほどにして誠意を示した小四郎らの態度に感じ、一統へ相談に及ぶべき旨を答えて使者をかえした。すると今度は耕雲斎が単身で金沢
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